それは大学四年のときだった。
私は、映画がはねたあとの新宿文化をぐるりと取り巻く行列、清水邦夫の戯曲を蜷川幸雄が演出する「真情あふるる軽薄さ」の開演を待つ行列の中にいた。
開演は九時半だったか、十時だったか。その行列の中に、あまり親しくなれなかった高校の英語教師がいて、意外に思うと同時に、もう少し話をしておけばよかったとほんのちょっぴり後悔したりしたのをよく覚えている。
正直に言えば、その芝居を細部まで覚えているわけではない。しかし、最後に若者が死ぬと、見ている私たちもジュラルミンの盾を手にした警備員に取り囲まれているという幕切れには、強く揺さぶられるものがあった。そこで発せられる台詞のひとつひとつにまでは理解が及ばなかったが、その劇を書いた人物とそれを演出した人物の、いわば青い「客気(かっき)」とでも言うべきものに強く感応したのだ。
私はすでに就職先が決まっていたが、このまますんなりと丸の内に本社があるような会社に就職していいものかどうか迷っていた時期でもあった。どこかに別の出口はないものかと思っていたが、具体的に何ひとつ思いつかなかった。
清水邦夫が『清水邦夫全仕事』の中で書いている。
《以前、同年輩の劇作家別役実となにかで対談し青春時代を回顧した時、彼の口からこんな意味のことばが出たのに驚いた。「自分は映画青年であり演劇青年でもあった。どっちへ進んでもよかったが、いわばはずみで演劇の方に傾いていった……」別役君がそんなふうに思えなかったのでちょっと驚いたのだが、同時にわたしもまったく同じ感想をこの時期に抱いていたので意表をつかれたわけである。しかし落着いて考えてみれば、また時代的に見れば、わたしや別役君のような“状態”はごくごく普通だったように思われる》
私は清水邦夫や別役実とは世代を異にするが、少年時代から映画や芝居をよく見ていたにもかかわらず、その世界を自分の未来と重ね合わせて考えたことはなかった。
ところが、この「真情あふるる軽薄さ」を見たとき、私の内部のどこかにスイッチが入ったのを感じた。「演劇」というものが、初めて自分が携わるものとして浮上してきたのだ。
だから、その直後、友人にある大劇団の試験を一緒に受けてみないかと誘われたとき、「真情あふるる軽薄さ」の世界からは最も遠くにありそうなその劇団の演出部の試験を、好奇心半分で受けてみる気になったのだ。
もっとも、テストには合格したものの、たった二週間でやめてしまうことになる。それは、その劇団が自分に合いそうになかったからというだけでなく、芝居という集団で築き上げていく作業が自分には向いていそうもないと思ったからでもあった。しかし、そのときの「演劇」の発見は、以後の私に大きな意味を持つことになった。それを契機として、演劇に関わる多くの同世代の若者たちと知り合うことになったからだ。
結局、就職先を一日でやめた私は、若い自衛官を取材したルポルタージュを書くことでジャーナリズムの世界に足を踏み入れていく。さらに私は、二番目の仕事としてアンダーグラウンド演劇の世界に生きる若者たちを描くことを選んだ。そこが当時の私にとっては最もよく知っている世界であり、住人だったからである。
そのルポルタージュが雑誌に掲載されると、それを読んだ「調査情報」という放送雑誌のスタッフから仕事依頼の電話があり、そこから私のノンフィクション・ライターとしての人生は本格的にスタートすることになる。
もしそうだとするならば、その出発点を用意してくれたのは、清水邦夫の「真情あふるる軽薄さ」だと言えなくもないのだ。
私はそうしたことどもを、遠藤書店の懐かしい棚で『清水邦夫全仕事』を見いだしたとき、一気に甦らせてしまった……。
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