「こんな日記のどこが面白いんだ? お前の生活になんにも関係ないじゃん。なんか所帯じみてるよ」
杉下がなんら感情を動かされた様子がないことに、何故かかすかに傷つき、口調を早くする。
「等身大なところがいいじゃない。無理している感じがしないところが、好きなの。なんだか、可愛いなって思う。時間がたっぷりゆっくり流れているところも好き」
「暇な主婦を莫迦(ばか)にして面白がってるの? 嫌だよな、女って。自分より下の女を見付けて安心したがるところがさ」
男性社員のこうした物言いには慣れっことはいえ、引っかからないでもない。入社したばかりの頃には、社内で女性蔑視の風潮があまりにもまかり通っているのでショックを受けたが、今ではもう諦めている。受け流し、いちいち突っかからないこと。彼らに悪意はなく、驚くほど何も考えていないから、真に受けるだけ損なのだ。目くじらを立てたところで、恥をかくのはこっちだ。父親の後ろ盾があり、正社員の栄利子は誰よりも身綺麗でいることを忘れずに男達に負けないくらい働きさえすれば、対等に扱われる。日常レベルのささいな言葉遣いに苛(いら)立だっていても仕方がない。機嫌の良さそうな態度を崩すまいとした。
「うーん。そういうことじゃないの。普通、主婦ブログって自分がどれだけ幸せか、家事をちゃんとやってるか、料理が上手いかを、見せびらかすところがあるじゃない。分かってもらいたい、という気持ちがすごく強いのよ。でも、彼女は……」
机の上の電話が鳴り、二人の会話は中断された。受話器を取ると、カリフォルニアの鮪業者からだった。この時間帯はアメリカからの電話が集中する。
「May I have your name, please? When shall I have him return your call?」
担当者が今、席を外していることを告げると栄利子は再び杉下に向き合う。
うまく説明出来ないのがもどかしい。おひょうのとぼけているようで、シャープなものの考え方が好きなのだ。彼女の言葉は、心地良く胸を流れていく。やさしい言葉遣いながらも知性を感じさせ、絶対に他人を傷つけない。ひたすら怠惰に暮らしているのに、それを恥じるわけでも、無理に意味を持たせるわけでもない。子供が居ないことに、焦りを感じている気配もない。何より、胸に残る言い回しや何気ないのに真似したくなるアイデアに満ちている。
例えば、蒸し暑い日は水着で家事をし、そのままワンピースを頭からかぶり、区民プールに飛び込みに行くという。図書館で借りるのはもっぱら石田千。全巻揃っている玖保キリコ作『バケツでごはん』を読むためだけに、あきらかに税金対策で経営しているやる気のない近所の喫茶店に通い詰め、わざと手間のかかるメニューを注文する。夫婦でカラオケに出掛け洋楽をひたすら歌う。ピザを頼んでテレビで放送しているハリウッド映画を見る。ガリガリ君リッチコーンポタージュを求めてコンビニをはしごする。
日がな一日なにをするでもなく、意味付けを求めるでもなく、予定を決めずにただ猫のように気ままに過ごしている様に惹(ひ)きつけられる。最後にそんな風に過ごしたのはいつだろう。もう思い出せないくらい、昔のことだった。彼女のブログを読むだけで、毎晩の会食や市場調査で張り詰めていた神経がほんの少しほぐれていく。
冒頭部分を抜粋
柚木麻子(ゆずきあさこ)
1981年東京都生まれ。立教大学文学部フランス文学科卒業。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」で第88回オール讀物新人賞を受賞。受賞作を含めた単行本『終点のあの子』でデビュー。
撮影・岡本あゆみ
-
女友達という関係性の極北
2015.05.14インタビュー・対談 -
彼女の友情が私を食べ尽くす──「女子会」を内側と外側から考える
2015.04.07インタビュー・対談 -
『あまからカルテット』 解説
2013.12.02書評 -
はじめて書いた小説は、親友へのクリスマス・プレゼントでした。
2011.11.09インタビュー・対談
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。