今日の朝ご飯と日経新聞が入っているコンビニ袋が、ベージュのプリーツスカートに擦(こす)れてかさこそと音を立てていた。デスクに向かいパソコンを立ち上げる。起動音が足元を震わせるほど低く響き、目に見えない弧を描きながら、辺り一面へとゆっくり広がっていった。この瞬間だけは、何も考えずとも、何もせずとも許される。もしかして、一日で一番安らぐ時間かもしれない。整理されたデスクトップが表示されるまでの間、ささやかな自由を満喫する。年収一千万をとうに超した今だからこそ、栄利子は自信を持って、この世の中で一番価値があるのは「時間」だと言い切る。時間さえあれば大抵のことはなんとかなる。誰もが慌ただしく日々を過ごしているから、現代は、企画でも商品でも作品でも、時間をたくさん費したものはそれだけで高く評価される。正しい食事の作法や柔らかな季節の挨拶で始まる便箋三枚以上の手紙、素肌のように見える薄化粧、よく手入れされた革製品が素敵とされるのも、そこにかけられた時間への敬意なのだ。
朝食を置くスペースをつくるため、まずはアルコール除菌ティッシュを取り出し、デスクをきゅっきゅっと音を立てて拭き清める。パソコンのキーボードの谷間、電話の受話口も丁寧に拭(ぬぐ)った。神経質、と揶揄(やゆ)されようと、こうでもしないと広すぎる空間に属している一部を自分の持ち場のように感じられない。山積みになった回付書類を突き崩し、一枚一枚素早く目を通す。人の出入りが激しく電話がひっきりなしに鳴り響いている就業中の、数倍のスピードで作業が進んでいく。時間は工夫しだいで生み出せる。社会人になってまず最初に直属の上司から学んだことだ。数分後、書類の山がようやく消えると、栄利子は手を擦りあわせたい気持ちで、いよいよコンビニの袋をデスクの中央に引き寄せた。
紙パック入りのカフェオレ。そして「かりんとうメロンパン」なる新商品の袋入り菓子パンを取り出した。今朝、近所のコンビニを二軒回ったがともに売り切れで、地下鉄駅構内の店でようやく見付けた貴重な品だ。身体に良いものが入っているわけはないと分かっていながらも、つい裏を返して原材料名を確認してしまうのは職業病かもしれない。大手製パンメーカー・ミツザキは穀物部門の得意先である。人工甘味料、保存料、着色料。自然派志向の母が嫌がりそうな食べ物を、こうして隠れて口にすることにこんな年齢になっても背徳めいた喜びを感じてしまう。これでたったの九十八円。中高生の頃、クラスメイトの何人かが購買部でこんな菓子パンを買い、お腹を満たしていたっけ。母の手製のお弁当はもちろん有り難かったけれど、栄利子はどぎつい色の大きなパンが無性に羨(うらや)ましかった。気楽なお菓子でたやすく満たされる同い年のその身体には、呑気(のんき)でのびのびした内面が広がっているように感じられたのだ。
ブックマークしているサイトの列を長く伸ばし、お気に入りのブログのURLにカーソルを合わせ、かちりという音とともに彼女と自分だけの時間に飛び込む。目で追いかけながら、自分の顔ほどもあるメロンパンにかじりつく。ざくりと表面のクッキー生地が壊れ、バターと黒砂糖の風味、メロン味が溢れ出した。確かに、彼女の言う通り。塩気と甘みのバランスは悪くないが、実に安っぽい味がする。それでも、液晶画面に流れる文章と一緒に味わえば、染み渡るように美味しく感じられた。
『かりんとうとメロンパンを一緒にしちゃうっていう発想がアホですよね。コンビニで見つけて、爆笑しました。でも、油っこくてざくっとした、かすかにみたらし風の醤油味がする生地をかみしめれば、トンネルを抜けたように広がる爽やかなメロンの香り。今、やみつきなんですよ。アホな味。アホな値段。こういう「アホ食」で昼飯を済ませてしまうと、色々楽ですよ。人生なめてる感じにやすらぎます。あ、おすすめはしませんけど』
人生なめてる。いい言葉だな、と思う。栄利子にとって人生とはずっと真剣に向き合い、取っ組み合うものだったから。かすかな達成感と胸に広がる古い油の重みにぼんやりしていたら、頭の上から声が降ってきた。
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