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長い期間の中に置くことを許されるのにふさわしいものを本質的にもった作品

長い期間の中に置くことを許されるのにふさわしいものを本質的にもった作品

文:小島 信夫 (作家)

『月山・鳥海山〈新装版〉』(森敦 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

 先日私はわけあって出雲へ出かけた。米子に近づくと雪をいただく大山が見えはじめた。そこで私は「暗夜行路」を思い出した。最近私は宇野浩二のことを書いたとき、作者は色々と私に語ってくれたが、そのとき志賀直哉のことや「暗夜行路」のことも出た。そのこともあって、「思ひ川」のような浩二の川の名のついた作品と思い合せて、大山という題ではないが大山が意味をもってくる「暗夜行路」を思い出したのだ。この作品の完成を見たのは昭和三年である。川を題にする人と山を題にする人の違いということ。それから、山へ入る話が書かれてから一世代たっているということ……。志賀直哉のことを引用したからといって、くれぐれも誤解のないようにお願いする。ある種の精神のパターンのことをいっているのだ。これだけいって、私は「鴎」にうつることにする。「鴎」も「天上の眺め」も私は非常に好きな作品であるが、私が以上述べてきたことを頭において貰うと、もはやあまりくどくど語らぬ方がよいかもしれない。

 これは鳥海山の麓の吹浦の町に住む夫婦のところへさっきもいったように東京から負債を負った友人が訪ねてきて、共に海岸を歩きまわる。天地人間の秘密が「わたし」によって語りあかされ、友人は鳥海山を見て昔の外地で死地をさまよっていたとき見た山を思い出し、それは次に、死にのぞんだ気持を思い起させ、債権者会議に出る覚悟をきめる。童女じみた妻には、海から見えたペンキ絵のような鳥海山が美しいしそれを見たいと願うが、夫はそういうのはほんとうの姿ではないという。この妻は鴎になってとんで行きたいという。友人の去ったあと、ある日沖へ向ってとんで行き鴎になる。

《ながくただぼくについて、ここまで来たとしか思わなかった女房が、じつはそうした女房あるがために、ようやくここまで来れたのを知ることの、あまりに遅かったことに及ばぬ後悔をしていると、また羽風を切って鴎の群れが来、やさしい声がするのです。

「そのときも、きっと若い人たちが、バドミントンをやったり、アコーディオンを楽しんだり、讃美歌を歌ったり、子供たちを集めて、イエスや使徒たちの紙芝居を見せたりしてるわね。楽しかったわ、ほんとうに……」》

 羽音は「ぼく」のまわりを包む。あたかも鳥海山にかかってかくすカスミのように。あたかもカスミを嫉妬するかのように。

 表向きのことにしろ「鴎」には、涙を誘うほど危険なものがあるのは、この一作には語りながら人物化された「わたし」がいるからだ。人物化など弱者のすることであり、強者のすることではない。そうとは唯の一度も作者はいってはいない。強者というようなズサンな言葉に当るものは、作品の中にあるわけでもないし、そういう範疇で扱われたものは何一つない。にもかかわらず奥底には流れていないことはないところの強者という感じの羨むべき素質はあるように思える。それゆえ甚だ身勝手ながらこの言葉をつかうわけである。そうして弱者の人物化など、よほどでないとありがたくない。しかし強者の人物化というものは、作者の知らぬうちに行われていて、名誉なことではない。そういうのは、読むに堪えない。しかしこの作者の作は「鴎」では人物化が、エッセイ「夫子の笑い」の不思議な人物化とは違った意味で、小説的に人物化されている。

 要は鴎になることによって、未来に若い人と共に、おそらく若がえって夢の中で生きて行くことになるとしても、それが過去のせめてもの代償であるとしても、こちらこそあちらから見れば彼岸であるとしても、いや、それだからこそ、やはりほんものの山は霧がかかってなかなか見えないという確信は捨てさることは容易に出来ず、それが分らぬのなら、笑ってすますより仕方がなく、我が道を行くことを、これからも変えることは出来ない。かくの如く忽ち反転して小説は絶唱から冒頭の鳥海山へと戻って行く。

「天上の眺め」も、この作品の中の言葉がひびき合うように、今までのほかの作品ともひびき合うようになっている。大台ガ原山でダム工事をしているときの朝鮮人工事人夫と部落の人との流木をめぐっての争いの話から、昔京城にいた頃の朝鮮凧の話にうつる。凧糸で互いに切り合い落ちてきたものは、拾ってよいことになっている。天の賜といえばいえるし、地上の人間の民族にしみついたとも見える考え方かもしれない。いや、それは、弥彦の“ばさま”たちの薪について一体となってひびき合うのなら、どこにもあることともいえる。じゃまされず悠々とあがる凧の中の凧を求めて行くと、そこは王宮であって、時を超越したような長いキセルでタバコを吸う老人の姿が見える。なぜ老人や子供が作品に登場するのか、ほぼ私にも分ってきたがそれは省くことにしよう。私は綿密に語られ、正確に図示された凧の絵を眺め辿るうち我を忘れるところを見ると、これこそ功徳であろうか。この功徳のありようこそ、この作品の核心であろうか。

 ところで、よけいなことだが、屋根へのぼる兄を見あげている弟の小さい顔。それから泣きじゃくりながらエンピツで手紙を書いてよこした大阪にいる“ばさま”の娘。カモメの羽音。どうしてこれらのものが作者の作った宇宙の中から呼びかけてくるのだろうか。
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 最後に「かての花」に登場する「若い人」に当る坂内正さんが先日手紙をよこして、今から十四、五年前、私の「女流」という作品のことで森氏が批評してくれたのが、肝腎の私の方はどういうわけか細かいことを全部忘れていたところ、坂内さんは、その二、三日後にノートしておいて、それを書き送ってきた。私事にわたって恐縮だが、「かての花」の舞台の弥彦で、その作者が何を考えていたかということを知る意味で参考になると思うので、私自身は恥かしく、諸氏には迷惑とは知りつつ、書きうつすことにした。坂内さんのノートした文章だから、語尾などニュアンスがいくらか違うかもしれない。そこはくんで貰いたい。

《私はそういう意味では全く時評家ではありません。私の目前に在るのはいつでも提出された一つの作品なのですから。で、私はいつも作者ということを抜きにしてかかるのです。で、私たちは早速作品にかかりましょう。小島さん、あなたは逃げるということについて徹底的に考えられたことがありますか。人間は何故逃げなければならないか、ということを。あらゆる人間は、自分になるためには逃げなければならないのです。過去からすべてから逃げださなければならないのです。それによってのみ人間は実存に達し、実存に達することによって未来にはじめて結ばれるからです。勿論、私のいう逃亡が単なる忘却でないことは分っていただけるでしょう。私は「底」として逃亡ということを言っているのであって、そのなかには実に逃亡の逆も展開として含まれているのです。私はまず最初にそれを言いたかったのです。

 これはいい作品です。少くともよくなり得る要素を持った作品です。まず、それは四角関係という三角関係をこえた一つの原型をもった作品だと思います。私は四角関係こそ一般の方式であって、三角関係というのはそのなかの一項が零になった時としてそのなかに含まれていると考えているのです。この問題に初めてとりくんだのは、私の知っている限り、ハックスレーですが、彼も成功はしませんでした。ここにはその四角関係があるのです。愛するということは、その人になりたいということであり、その人になるということは、これはその人を殺すということによってしかなり得ないでしょう。で、謙二は良一になりたいと思っているからこそ悩み、礼子は満子になりたいと思っているのです。殺してでもなりたいほどに。

 ですから良一(謙二?)と礼子が結ばれるということこそ、哲学的意味の上では明らかにこの作品の主題なのであって、これは主題である以上、明らかに最後まで、せめて後半もちこたえ得るぎりぎりのところまでもちこたえるべきだったのです。それを作者はあまり早く出しすぎてしまったのです。もし真の鋭敏な読者だったら、そこで主題をすっかりみてしまうことになり、後はいかに作者が自分でそのことに気がつかず、迷いを深めていくかという点に興味をもつしかなくなってしまうのです。作者に明確にその意識があったら、矢張りこれは最後までもちこたえたでしょうし、また満子が自分の留守中に女中として入った礼子が自分の椅子に腰を下ろしているのを見て叱るところが、上流社会の風俗──それはそれとして面白いのですが──としてだけでなく、この意識をもってすれば、もっと実に恐ろしいこととして描かれたでしょうし、終りに近く礼子が吊橋を渡っている満子を揺するところはもっと強くなるでしょう。この主題を掴んでしまえば、つまり明確に意識してしまえば、後は構図は纒ってしまうでしょう。(後略)》

 と続いている。
 

文春文庫
月山・鳥海山
森敦

定価:924円(税込)発売日:2017年07月06日

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