私にとって『泣き虫弱虫諸葛孔明』は、長らく封印していた物語であった。
理由はひとつ。自分も三国志の物語を描いており、自分の作品に影響が出ない様にする為である。私は中学生の時に横山光輝『三国志』にはまって以来、サンゴクシシャン街道をひたすら突っ走ってきた。いろんな三国志ものを読みあさり、中国の三国志遺跡を巡り歩き、諸葛亮の西南伝説の収拾と諸葛亮を祀る武侯祠参拝の為に留学もした(短期の語学留学ではあるが)。そして気づけば三国志モノを描く側になっていた……という、いささか病が篤めの漫画家である。二〇一〇年末から孔明の妻・黄氏が主人公で、「孔明の嫁取り」から始まる四コマを始めていたので(現在も連載中)、そのあたりがかぶりそうな三国志モノは避けるようにしていたのだ。
だが、『泣き虫弱虫諸葛孔明』の評判は耳にしていた。あの酒見先生が書いているのだ。そりゃあ面白いに決まっている。青春時代に夢中になって読んだ『後宮小説』『D’arc ジャンヌ・ダルク伝』を思い出しては読みたさにうずく心をやり過ごしていたのだが、ある時こんな噂が飛び込んで来た。
「すごく面白いよ。孔明は変態だけど」
変態。
これまで見てきた変態的孔明といえば、息を吐く度にピルルと伸びる玩具(“吹き戻し”というらしい)を鼻に差しっぱなしの孔明とか、初対面の人間に見せてはいけない部分を見せてしまう孔明とか、未来人に意識を乗っ取られてパソコンやスマホや物騒な化学兵器を使う孔明とか、四輪車で暴走する孔明とか、羽扇からビームを出す孔明とか、種類も程度も実に様々であった。果たして、それとはまた違う変態か、それ以上のものなのか……。
だめだ。気になって仕方が無い。
単なるサンゴクシシャンとして酒見先生の小説を読みたい自分と、物書きとしてのスタイルを崩したくない自分との凄絶な一騎打ちが続いた為、「買うだけ買って、時が来るまで封印しておく!の計」を使って自分同士を強制的に和睦させたのである。
しかし、人生は予期せぬ事が起こるもの。なんとこの度、解説のお仕事を戴いたのである。その瞬間、単なるサンゴクシシャンな自分は雄叫びをあげ、物書きの自分は「まさかこんな事があるなんて……」と半ば呆然としつつ、いそいそと封印を解き始めた。こうなれば、どっぷりと『泣き虫』の世界に飛び込むのみ。全力で味わおう、と読み始めたら止まらなくなってしまった。面白い。たまらない。孔明先生は素晴らしき変態だった! ああ、幸せ……!!
だが、どのように解説の仕事を果たすべきか。私は書評のプロではないし、既に御三方の素晴らしい解説がある。ならば「長年三国志に触れ三国志モノを描いて来た作家」として、気づいた事を述べる以外にないだろう。自分の作品も完結まで描いていない身で、人様の作品に何かを言うのは畏れ多いとも思う。しかし、せっかく戴いたご縁。錦の上に花を添えられるよう、筆を尽くすことにしよう。
私が三国志を描く側になってしみじみと思ったのは、三国志は魔性の物語ということだ。読む時はただひたすら楽しかったのに、描くとなると地獄も一緒に付いて来る。
史料に基づく「史実」と、綿々と受け継がれてきた三国志演義などの「物語」の要素と、作品としての「エンターテイメント性」とをいかに調和させるか。正史『三國志』と物語『三国志演義』との違い。歴史学者達の様々な解釈の中からどの説を採るか……などなど。後漢時代の行政区分はちょこちょこ変わるので、地図や地名についても細かく注意を払う必要がある。
こうした調べ物をすることで拾えるネタもあり、それ自体が楽しくなることも多々あるので、しんどいだけの地獄ではないが、それなりに労力が必要なことは確かだ。
『泣き虫弱虫諸葛孔明』は、膨大な知識が土台となり、孔明がその変態性を遺憾なく発揮しても、劉備が魔性の魅力で周囲の人々の人生を狂わせても、アニメやプロレスネタが投入されても壊れぬ空間を作り上げている。これは歌舞伎や落語などの伝統芸能の世界で名人が行う「(型を知り尽くした上での)型破り」と同様で、知識と技の両方があって、はじめて可能になることだ。