この第四部の中で私が秀逸だと思ったのが、周倉の描写である。ご存知の方もいらっしゃるだろうが、彼は正史には登場しない(実在しない)後世の人間が創作した架空のキャラだ。常に関羽に付き従い、関羽の死を知るや後を追い自刎して果てる彼の姿は、民衆の心の代弁者だったのだろう。現在では、主神・関羽に従う存在として、関平と共に各地の関帝廟で祀られている。余談だが、麦城の跡地近くには彼のお墓が存在し、今でも地元の人に管理されていたりする。
実在しないとは分かりつつ、物語の要所要所でグッジョブな働きをしてくれる(作家としても大変ありがたい)彼を、どう描写するのか。酒見先生はたった一言で違和感の無い存在に変え、その後も登場させることに成功していた。
「関羽にしか見えない特殊武将」
もう、見事としか言いようが無い。
読者は既に、華麗なる変態と魔性の男、そしてアニメやプロレスの描写に慣らされている。それ故この一文は、三国志初見の人を「あ、そうなんだ」と納得させ、詳細を知る人の爆笑を誘う仕掛けにもなっているのだ。なんと絶妙な表現だろう。酒見先生の筆の力を、改めて思い知った次第である。
考えてみれば、そもそもタイトルからして絶妙だった。確かに孔明という人物は、どの物語においてもよく泣いている。物語において、ここぞ!という場面には涙があったし、「前出師の表」も最後は「涙で言葉を失いました」というところで締められている。弱虫という言葉も、そうだ。北伐の時に孔明が採用した慎重策を、臆病と評する人もいた。
それでも孔明といえば、長い間「完全無欠の天才軍師」「君主の遺命に殉じた清廉な人物」という人物像が主流であった。最近は天才の部分が行きすぎて、変態パーフェクト超人として描かれることも増えているが、涙を一番前に持って来ることはなかったように思う。それをなぜ、この作品では一番目立つ表題の所に持ってきたのだろう。
あくまで私の想像に過ぎないが、もしかしたら「今までのイメージとは全然違う孔明や三国志を展開しますよ」という酒見先生の宣言であり、読者に心の準備を促す看板でもあったのかとも思う。
この看板の向こうには、実に豊かで奥深い三国志空間が広がっている。そこには、あの時代を生きた彼らがいる。その姿を書き残した歴史家たちがいる。講談で語り継いだ人がいる。物語を書いた作家たちがいる。それらを楽しんだ人々がいる。研究した学者がいる。今を生きる私たちもいる。広大な時間と空間の中にあらゆるものが存在し、それらが対立することなく(時にはプロレスもして)調和を保ちながら、一つのまとまりを成している。……ん? これって「宇宙」そのものではないか?
図らずも宇宙の話に行き着いてしまったが、せっかくだ。宇宙についても私見を少しだけ語ってみよう。
昔の中国では、人間社会から天地自然に到るまでの、有形・無形あらゆるものが内包された時間と空間を「宇宙」と定義した。そしてその根底には、「ある働き」が存在すると考えた。それは絶えず変化し、目には見えず言葉にすることも出来ないが、確かに存在し、世界を成り立たせている絶対的なものである。
これを「道」と表現し、それと一体化した不老不死の人(=仙人)になることを目指したのが道教であり、宇宙の状態を見極め、そこから導き出された答えを現実世界に役立てようとしたのが易や占術であり、天文学と言えるだろう。
この物語で孔明は、占術や星読みによって宇宙の姿を見つめ続けている。だが、何が見えているかは分からない。物語の始まり以来、登場人物たちも読者も(もちろん私も)煙に巻かれ続けてきた。
しかし、彼が主役となる第伍部は、彼の生き方が則ち、彼の見た宇宙の景色ということになる。なぜなら彼は宇宙の法則に従う男だからだ。
「うつろなるものが道」という酒見先生の言葉の通り、道に則った物事ほど、孔明は口に出さないかもしれない。それでも、わずかでもいいから同じ景色を見たいので、目を凝らして第伍部を追うことにしよう。
読んだら泣いてしまいそうだな、と思う。でも、想像もしなかったようなネタが思いもよらないタイミングで放り込まれて、目を丸くしたり、笑ったり、膝を打ったりもするのだろう。この『泣き虫弱虫諸葛孔明』が、ただ泣かせるだけの物語になるとは思わないし、思えない。孔明には、支えてくれる黄氏もいる。きっと大丈夫だ。
私にとって『泣き虫弱虫諸葛孔明』は、三国志というジャンルに新たな可能性と楽しみ方を示してくれた作品である。いつまでも広くて楽しいこの宇宙に浸っていたいが、そろそろ自分の仕事に戻らねばならない。目の前には真っ白な原稿用紙の平原が広がっている。ペンを動かしながら第伍部の封印が一日でも早く解けるよう、励むことにしよう。
酒見先生に、心から感謝と敬意を。
完結巻の刊行、おめでとうございます。
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