――『泣き虫弱虫諸葛孔明』には、これまでの「軍神」「英雄」というイメージを真っ向から覆す、とんでもない諸葛孔明が登場します。奇怪な服に身を包み、妄想じみた宇宙哲学を語り、自らの名を高めるために策謀をめぐらし、そして、不細工な奥さんと日がな一日イチャイチャする……。
酒見 この作品は、作者である私すら孔明をこういう人物とは思っていない、というところから出発したんです。本来、歴史小説のオーソドックスな書き方というのは、作家の頭の中にこの人物はこういう人だという像がまずあり、その人を中心にして当時の状況を眺め、資料を調べ、世界を作っていくものだと思います。もちろん、私の頭の中にも、自分なりの、歴史上に実在した人物としての諸葛孔明像というものはあるんですが、今回はあえてそれを無視して全然違う孔明にしてしまった。こんなやりかたで果たして歴史小説が書けるのかという興味もありました。
まあ、正史の「三国志」を読むと、孔明は職務をまっとうすることに忠実な、きわめて勤勉で真面目な人だったんだろうと思いますよ。内政の面でも蜀(しょく)の法律を整備しただけでなく、みずから裁判実務もみていた。働きすぎるくらい働いていたようですし、出師(すいし)の表を見ても誠実な人柄が偲ばれます。
――そういう孔明像があるのに、なぜ、あえて虚像としての孔明を描こうと思われたのですか。
酒見 何といっても「三国志」はこれまで多くの先人によって書かれてきていて、十指に余る作品があります。今さら私が書いてもなあ、という気持ちがあったことは確かです。
作家が「三国志」に取り組む場合、物語の中の誰に焦点をあてるかを決め、三国志世界に対するスタンスを定めていくわけですが、どこに足場を置くにせよ「三国志」をシリアスに描くことは、大過なくやればまず面白い小説になる。
昔、今東光の人生相談で、「今まで読んだ本の中でいちばん面白かったのは、吉川英治の『三国志』だ」という男の子の葉書を読んで、「三国志は元が面白いんだ。読んで感動するのはいいが、吉川の手柄じゃねえんだ。それでわかった気になるな!」みたいなことを、いつもの今東光節で説教する場面があったんですが、日本の作家が「三国志」を扱うのにはそういうリスクが伴うわけです。やるからには面白くて当然。万一、面白くなかったらひとえに作者の責任という。
だから、私の場合、ある人物に焦点をあて、男たちのロマン溢れる三国志世界を描き出すという試みは、ハナから捨てています。あえていえば、「三国志」自身を主人公にしたらどうなるかをやってみた、ということでしょうか。
――講釈師による語り口調で書かれているというのも、とてもユニークなところです。冒頭からいきなり「わたし」という作者が顔を出して、孔明について講談調に語っていくという体裁が取られていますね。