書評

筒井康隆の本質とは「作家」ではなく「役者」なのか?

文: 松浦 寿輝 (作家)

『繁栄の昭和』(筒井康隆 著)

 ところで、「偽フォークロア」という観点に立った場合、小品「つばくろ会からまいりました」が、一種の民話ふうの味わいをたたえていることも見逃せない。「つばくろ」すなわち燕という言葉が題名に含まれていることから、人は当然「鶴の恩返し」へと思いを致さずにはいられまい。妻の病気入院中、家事手伝いにきてくれた派出婦「麻樹ちゃん」と主人公「おれ」との間に交わされる、「村木さあん。何時に召しあがりますかあ」/「できたらいつでも食べるよう」/「お洗濯物はありますかあ」/「洗濯機に入れてあるやつだけだよう」─といった牧歌的な会話のトーンも、このフォークロリックな民話性を誇張している。物語は間然するところのない美談ふうの結末を迎えるが、この感動的な夫婦愛の美談を、はて、本当に信じてよいものか。物語の制度をいきなり脱臼させずにおかない「ワハハハハハ」というあの空笑いのようなうつろな声が、どこからともなく響いてくる。

 そうした角度から本書を読み進めるとき、「附」として巻末に添えられた「高清子とその時代」というエッセイの淡々とした記述に、何やら妖しい気配が感知されてならないのは、当方の深読みにすぎるか。さしたる名声を得ないままに終わった一映画女優を突然発見し、その魅力に目覚めてゆく過程を衒いも気取りもなくさらりと綴ったこのエッセイは、「繁栄の昭和」の一例証として、本書の内部にきわめて適切に位置づけられるテクストではある。だが、無知を恥じよとせせら嗤われることを承知であえて言うが、高清子などという女優がはたして本当に実在したのか、とわたしはふと不安にならずにいられない。本書で触れられている色川武大の『寄席放浪記』や『あちゃらかぱいッ』をわたしは慌てて入手して卒読し(どちらも滅茶苦茶面白い本である)、ひと通りの納得は行ったものの、実を言えばまだ少々疑心暗鬼が残っていないわけではない。

「一族散らし語り」を例外として、本書はおおむね穏やかでほのぼのとした、明るいトーンに貫かれた短篇集である。これまで筒井氏がどれほどのグロテスク、狂気、暴力、不道徳、非常識を平然と書いてきた作家であるかを考えればやや意外の感がなきにしもあらずだが、何しろ「繁栄」を看板に掲げたフォークロア集なのだし、それもまた当然だろうと考え直してはみる。が、しかし、わたしの疑心暗鬼は実のところこの「ほのぼの」、この「明るさ」それ自体にまで及ばずにはいない。「傘寿を越えて人間が丸くなり、過ぎ去った昭和時代の繁栄への甘美な懐旧に浸っている、愛妻家の老作家」──それもまた、「偽フォークロア」とまでは言わないものの、一種の、そう、本書収載の一短篇の題名を借りて言うなら「役割演技」なのではあるまいか。

 筒井氏はネットで「笑犬楼大通り 偽文士日碌」と題する公開日記のブログを発信しており、「偽文士」と言い、また普通の「日録」ではなく「碌でもない」の「碌」の字を用いていることと言い、一筋縄では行かない言語装置であることは明らかだ。そこには時として、ぞっとするほど背徳的な「冗談」が脈絡なしの唐突さで書きつけられ、人々の心胆を寒からしめたりもしているが、そうした身振りに対して、あらまあ、「御冗談でショ」(これはマルクス兄弟の一九三二年──昭和七年である──の映画「Horse Feathers」の邦題)と軽くいなして切り抜けようとしても、わたしたちの疑心暗鬼がそれで収まるわけではない。もともと『世界はゴ冗談』(これは筒井氏の近作の書名)と思って生きている人間に、今さら「御冗談でショ」とかましてみていったい何になるのか。

 ところで、先日ある知人に、あのブログはね、筒井さんが面白がってやっている「文豪のコスプレ」なんですよ、と言われたときには、あっ、そうか、と思わず膝を打ったものである。あの和服姿、あの余裕綽々の煙草の吹かしよう……。なるほど、「あなたのいるここだけが現実の世界じゃないのよ」(「役割演技」)と呟きながら、「実」を「超」へ、「真」を「偽」へ向かって絶えず超脱しつづけてきた筒井康隆が、「筒井康隆」自身をも演劇的に虚構化するに至るのはきわめて自然な成り行きであろう。「日碌」に氾濫する変哲もない日常生活の細部の記述に目をくらまされ、そう言われるまでこの倒錯的な「コスプレ」のさまに気づかなかったおのれの不明を恥じなければならない。

繁栄の昭和筒井康隆

定価:本体680円+税発売日:2017年08月04日


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