そんなときふと頭をよぎるのは、わたしたちはこのとんでもない異才を、時おり趣味で役者をやることもある稀代の作家と思ってきたわけだが、実はその反対に、時おり趣味で小説を書くこともある稀代の役者、というかもっと正確にいえば、原稿用紙ないしワープロ画面そのものを舞台と化して異形の言葉の劇を演じてきた倒錯的な俳優として捉えるべきではないのか、という戦慄的な直感である。筒井康隆は本質的には、演じる精神にして演じる身体なのであり、その欲望の発露がたまたま小説という表現形態をとっただけのことではないのか。彼においてフィクションの創作行為の核心に位置し、またそれを駆動している原動力とは、自分でないものを「演じる」身振りそれ自体ではないのか。恐らく筒井氏にとって、世界とは、ことごとく「ゴ冗談」であり、「ワハハハハハ」──よく知られた「筒井語」に翻訳するならむしろ「ギャハハハハハ」か──であり、かつまた「役割演技」なのである。「SF」も「フォークロア」も、演じられた「SF」だから「超SF」となり、演じられた「フォークロア」だから「偽フォークロア」と化してしまう。そういうことだ。
そこまで考えてくると、本書収載の「メタノワール」が案外、「ツツイ・ワールド」の根底に秘された、もっとも枢要な鍵のありかを暗示している作品のように見えてくる。そこでは、ある架空の「ノワール」な物語の役柄を演じている「おれ」が、時おり「おれ自身」に戻って素の自分として自由に喋りまた行動し、かと思うとまた唐突に役柄に戻り「本来の科白」を口にして、そうした往還が好き勝手に繰り返され、その全体が一本の実験的な映画作品として生成してゆくさまが描かれる。演技する俳優がそれが演技であること自体を誇示するメタシアターの趣向と言ってしまえばそれまでだが、要するにここでもまた、「あなたのいるここだけが現実の世界じゃないのよ」という偽の真理が、本気めかしたとして、まことしやかな真率さで、ないし真率きわまる臭さで演じられているわけだ。
この短篇の末尾、「船越英一郎」が「おれ」に、「どうもぼくはこの映画のルールに慣れることができないんだなあ。つまりその、ルールなしというルールにだけど」とぼやく場面がある。「ルールなしというルール」をとことん厳密に遵守しつつ、いつ幕が下りるとも知れず果てしなく進行しつづける戦慄的な演技空間──それこそまさに「ツツイ・ワールド」それ自体なのではないか。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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