書評

木田元を木田元たらしめたもの

文: 保坂 和志 (小説家)

『哲学散歩』(木田元 著)

 亡くなられた後、お宅で奥様から先生の院生時代だったかその後も含めてだったか、若かった頃のノートが何冊もあるのを見せていただいたが、細かい字でびっしり書いてある。ページの全体を埋めるのでなく、定規でタテに線を引いて見開きのページを三分割ぐらいにして、いわゆるノート部分、注釈部分、あとで書き足す部分という風にシステマチックに整然とノートが“構築”されている。木田先生の書く字は一度見たら絶対に忘れないが見たことのない人には想像つかないほど小さい。米粒みたいだ。それがノート部分にびっしり書いてある。――あのノートをどこか出版社が実物を画像にして印刷するファクシミリ版というのか、それにして出版してくれないものだろうか。あれは思考・思索の貴重な記録だ。

 その後も先生があれほど驚異的に綿密なノートを書きつづけたとはさすがに思えないが(「あんなこと、もうしない」と笑って答える先生の声が聞こえてくるようだ)、しかしあのノートを通じて鍛えられ体に刻み付けられた思考法が先生の生涯を貫いてあり、だからこそ本書の第七回から十回までのような、要点が簡潔に押さえてあって同時に奥深く、書いた人の思いも反映されている文章が紡ぎ出されたのだと思う。

 あのような文章を書ける人は哲学に限らず、文学の世界にも歴史の世界にももういないんじゃないかと思う。知識を一度自分の経験を通して再構成し、なおかつそこに過剰な私見を混ぜない――これは情報検索が容易になったインターネット世代には逆説的にもうできなくなった思考法だ。大英図書館に毎日通って本を書き写した南方熊楠のように、書物の必要箇所を機械でコピーするのでなく“手で書き写す”。思考力というのはそういう手間と時間を通して練り上げられる。

 木田先生には『詩歌遍歴』(平凡社新書)という隠れた名著があり、これは青年時代に愛読した内外の詩を中心に短歌・俳句にも広がって思い出も多く綴られた本だが、驚くのは先生はそこに引用した詩のすべてを暗唱することができた。手で書き写すことと綿密なノートを作ることにもう一つ、暗唱・暗記すること、これが最後の旧制高校の世代といえる木田先生の世代までつづいた広い意味での勉強法だった。先生の子供の世代である私は、人生も先が見えてきた今になって、そこをいい加減にしてきたために自分がスカスカであることに気づくハメになった。

 第二十回にカッシーラーが直観像体質だった話がちらっと出てくる。直観像体質は先生自身の口からもたびたび聞いたことがあり、心底感心していた能力なのだが、先生があんなに直観像体質に感心した理由が何だったのか、今回『薔薇の名前』のところを読んでいてわかった(と思った)。先生は直観像体質者にしかできないような知識の整理をやっていたのだ。

 木田先生は努力の人であると同時に、そのように努力を超える能力を潔く認める人でもあったから、超自然的現象を受け入れる度量も持っていた。そこをここで書いている余裕はないが、第十八回の「マッハ」と道で出遭った驚きにその一端があらわれている。



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