
本書に沿った話が長くなりすぎた。残されたスペースで、木田先生が生涯こだわったハイデガーの“人柄の悪さ”と闇屋をネタにしたことの二つについて、私なりの考えを書いてみたい。
木田先生はハイデガーの“思想”に魅了されてやまなかった。戦後の混乱期を文字どおり生き延びることができたのは『存在と時間』という本があったからと言ってもいい。第十二回にもそれが書いてある。しかし知れば知るほどハイデガーは“性格・人柄”が悪い。
「身近にいる誰からも愛され、いつもニコニコしている人柄のいい思想家が、世界をくつがえすような思想を提起する、ということの方がありそうにもないとは思わないか、と」(40ページ)
というハイデガー擁護もいかにも苦しい。先生は人に言うのでなく自分自身を納得させるためにこんなことを考えてもみたのだろうが、なんとしても弱い。そして、213ページの、恩給受給資格を確保したらその日に退職したという話を知ると、「下司野郎!」と言ってやりたくなる。「周囲がどれだけあんたのために駆け回ったと思ってるんだ」と。
どれだけ調べても、人間ハイデガーに関していい話は一つも出てこないんだから、もうキッパリ諦めて、ハイデガーの講義だけ読んでいればいいじゃないかと思うのに、先生は次々新しいネタを仕入れてしまう……。笑いごとじゃなく、これは苦しい。尊敬してやまない恩師が人として最低だったのと同じことなんだから。
しかもその木田先生自身はどうかというと、実生活では人とつき合うのに相手の人柄を一番に置いていた。ズルい人は大嫌いだった。これをどう考えればいいか? これは、
「そういうこともあるんだ」
と、対象と距離をとって、冷静に客観的なことを言って済ませられる話じゃない。喩えは変だが、女房が男と駆け落ちして、しかも多額の借金まで残したのを、「そういうこともあるんだ」と言っていられる人はいない。
木田先生にとっては本当に抜き差しならない事態だ。中央大学で行なわれた最終講義でも、ハイデガーの人柄の悪さに先生の話は及んだ――と、私の書いているのも同じことの繰り返しで少しも前に進んでないが、〈思想最大、人間サイテー〉というこの二つの相反する気持ちに木田先生はとうとう最後まで決着をつけなかったところが凄いんだと、今になって私は思う。
どちらか一方に決めてしまうのは簡単なのだ。先生はとうとう最後まで、“一方だけ”にしなかった。しかもそれは、優柔不断のどっちつかずというのではない。先生はどっちも現実である、しかしそれが私にはどうにも受け入れられないんだと言いつづけた。
「現実にはそういうことがあるんだ。俺は一方だけをとることはできなかった。お前も無理して(自分にウソをついて)どっちかをとることはない」
と、先生は身をもって語ったのだと私は思うようになった。
ハイデガーとの関わりでは、木田先生は「どこか表現主義を思わせる講義」(208ページ)というケレン味たっぷりの語り口を真似ようともしなかった(ポーズから入る人は大学教授にじつは多い)。カッシーラーの直観像体質のような天才的才能という賛辞もハイデガーにはいっさい送らない。先生はただただハイデガーの思想・思索だけを賞賛した。
最後、闇屋ネタは、先生はウケると何度でもそれを繰り返す子供っぽいところも確かにあったが、闇屋をやったというひと言で、哲学はハードルが高いと思い、関心はすごくあるが学校の勉強をサボッたために入っていけず、遠巻きにしていた私のような人間の関心を一気に惹きつけたことは間違いない。
木田先生が「闇屋」と書くたび、諦めかけていた哲学への思いを何百人単位で喚び起こしたのだ。この功績と感謝は計り知れない。
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