別冊文藝春秋

『レフトハンド・ブラザーフッド』知念実希人――立ち読み

文: 知念 実希人

電子版15号

「別冊文藝春秋 電子版15号」(文藝春秋 編)

 番田はエメラルドグリーンの液体が入ったプラスチック容器を手の中で転がす。もうおしまいだ。逮捕されて徹底的に調べられれば、自分が早川(はやかわ)殺しで指名手配されていることに気づかれてしまう。胸が絶望で満たされていく。

 背中の痛みは引き、体の感覚も戻ってきたが、動く気力はなかった。そんな岳士の右手を、番田は慣れた手つきで捻りあげる。肘と肩の関節が極(き)められ、岳士の体は自らの意思とは関係なく裏返しにされる。

 関節を捻りあげたまま、番田は岳士のジーンズのポケットから財布を取り出した。

「関口亮也(せきぐちりょうや)、二十一歳、埼玉県在住か」

 番田の声が降ってくる。財布に入れておいた身代わりの男の免許証を見ているのだろう。

「さて、関口君。このままだとお前は違法薬物の所持と公務執行妨害の現行犯で逮捕される。もしお前が学生なら、当然退学になるし、どこかに勤めていたらクビになる。裁判では執行猶予が付く可能性もあるけど、前科持ちに対する世間の風当たりは厳しいぞ。まともな社会生活はそう簡単には送れない。……ただな、違う道もある」

 頬にアスファルトの冷たさを感じながら放心していた岳士は、顔をわずかに動かして番田を見上げる。

「……違う道?」

「ああ、そうだ。そっちを選べばお前は逮捕もされない。今日の件が世間に知られることもない」

 番田は捻りあげていた右手を放した。

「逃げたりすんなよ。お前の名前も住所も分かっているんだ。この場は逃げきれても、すぐに手配して逮捕できるからな」

 岳士は無言で立ち上がると、関節を極められていた腕と肩を軽く動かした。

「俺に何をさせようっていうんです?」

 岳士は重心を落としながら番田を睨みつける。

「そう警戒するなよ。こんな誰に聞かれるか分からない所でするような話じゃねえ。ついてきな」

 番田は抜き取った財布を岳士に放ると、手招きして歩きはじめた。どうするべきか分からず、岳士はその場に立ち尽くす。

「ついてこないなら逮捕するぞ」

 首だけ回して番田が言った。岳士は気づかれないように右の拳を握りしめる。さっきは最初に逃げようとしたからやられてしまったが、真正面からやり合えば勝機はある。掴まれる前にパンチを叩き込めば……。

『言われた通りにしよう』

 頭に浮かんでいた戦闘シミュレーションは海斗の声で中断した。

「何でだよ?」

 番田に気づかれないように、岳士は口の中で言葉を転がす。

『あの刑事に身代わりの男の免許証を見られているんだ。ここで逃げるのはよくない』

「あれは他人のだ。問題ないだろ」

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版15号文藝春秋・編

発売日:2017年08月18日


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