別冊文藝春秋

『レフトハンド・ブラザーフッド』知念実希人――立ち読み

文: 知念 実希人

電子版15号

「別冊文藝春秋 電子版15号」(文藝春秋 編)

『その他人の身分証明書を使って、僕たちはウィークリーマンションを借りたり、ネットカフェを使ったりしているんだぞ。ある意味、あの免許証は僕たちの命綱なんだよ。ここで逃げたら、せっかく手に入れた居場所を失うことになる』

 海斗の正論をぶつけられ、岳士は唇を噛む。

『それにさ、この刑事がどんな目的なのか興味もある。場合によっては利用できるかもしれない』

「……分かったよ」

 岳士はため息交じりに答えると、胸の前で構えていた右拳を下ろす。自分に言われたと思ったのか、番田は「それでいいんだよ」と鼻を鳴らして進みはじめた。岳士はそのあとについて行く。

 細い路地をいくつも通り過ぎ、歓楽街のはずれにやって来ると、番田は古びた雑居ビルの前で足を止めた。

「ここだ」

「ここだって……」

 三階建てのそのビルは廃墟の様相を呈していた。飲食店が入っていたらしい一階にはシャッターが下ろされている。二、三階の窓には風俗店らしき店名が書かれているが、明かりは灯っておらず営業している様子はなかった。よく見ると窓ガラスにヒビが入っている。

「いいからさっさと来い」

 番田は迷うことなくビルの入り口のガラス扉を開くと、地下へと続く階段を下りていく。まだ電気は通っているのか、階段には蛍光灯が灯っていたが、その一部は点滅していて、いまにも消えそうだ。

 地下に下りた番田は、そこにある扉を開く。中は小さなバーになっていた。店員の姿は見えないが、数脚のカウンター席と二セットのソファー席がある。カウンター奥の棚には、酒瓶が幾つか置かれていた。

 番田は「とりあえず座りな」とソファー席に勢いよく腰を下ろす。岳士は言われた通り、テーブルをはさんで対面のソファーに腰掛けると、店内を見回す。

「なんなんですか、この場所は?」

「見ての通り、何ヶ月か前に潰れたバーだよ。ただ、このビルのオーナーがずぼらな奴でな。さっさと取り壊せばいいものを先延ばしにしたうえ、電気や水道を止めてもいない。俺みたいな仕事をしていると時々、こういうおあつらえ向きの場所の噂が入ってくるんだよ」

「おあつらえ向き?」

「そう、誰にも聞かれたくない話をするのにふさわしい場所だ。いまみたいにな」

「……こんな場所に連れてきて、俺をどうするつもりなんですか?」

「そう警戒するなって。男の趣味があるとかそんなんじゃねえからよ。そうだ、一杯飲むか?」

「結構です」

 岳士が硬い声で答えると、番田は「俺は頂くとするか」と立ち上がり、我が物顔でカウンターの中に入っていく。

「このバーの店主は夜逃げ同然に出て行ったからな、けっこういい酒が残っているんだよ」

 番田はショットグラスにウイスキーを注ぐと、一気にあおった。

「いいんですか、刑事が仕事中に飲んでも」

「おいおい、いま何時だと思っているんだ。勤務時間外に決まっているだろ」

「俺を逮捕しようとしたじゃないですか」

「自主的に捜査しているのさ。勤務中にやるにはちょっと問題があるような捜査をな。さて、それじゃあさっそく本題に入るとするか」

 番田の声が低くなった。岳士の体に緊張が走る。

「お前はサファイヤの密売にかかわっている。そうだな?」

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版15号文藝春秋・編

発売日:2017年08月18日


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