書評

SF、本格ミステリ、歴史時代小説──著者の持ち味が一冊で楽しめる

文: 末國 善己 (文芸評論家)

『蒲生邸事件』上・下(宮部みゆき 著)

 中年男は、昭和一一年では「平田次郎」を名乗り、病死したとされる蒲生大将の看護人・黒井路子に代わり、蒲生邸で働く準備をしていたらしい。孝史は、職場を逃げ出した次郎の甥として、蒲生邸に身を隠す。やがて一発の銃声が轟き、自室にある大きな机の上で半身を伏せた蒲生大将の死体が見つかった。史実通り、蒲生大将は自決したと思われたが、現場に拳銃がなかったため、事件は思わぬ展開をたどる。

 事件当時、蒲生邸にいたのは、蒲生大将の息子で過去にいわくがある貴之、タクシー会社社長の子息との婚約が決まった娘の珠子、蒲生大将とは確執のあった弟の嘉隆、嘉隆との駆け落ちを考えている後妻の鞠恵などワケアリの人物ばかり。しかも蒲生邸は、周辺を決起部隊によって封鎖されていたので、外部からの出入りが難しいクローズド・サークルになっていたのだ。

 本格ミステリは、古色蒼然たる洋館、雪や嵐で隔絶された山村や孤島などを、陰惨な殺人の現場にすることがある。これはあやしげな雰囲気を盛り上げたり、容疑者が限定されるので作者と読者の知的ゲームが展開させやすかったりするからだろう。ただ著者の本格は、日常的な世界で魅惑的な謎を描き、それを論理的に説くスタイルなので、時に“本格らしい”とされる洋館やクローズド・サークルはあまり出てこない。

 それなのに著者が、本書で洋館やクローズド・サークルを使ったのは、二・二六事件下の都心部で起きる事件ならば、洋館があっても、周辺が封鎖されて外部との連絡が難しくても、必然性が確保できると判断したからではないだろうか。ここには常に細部にまでこだわり、重厚な物語を紡いでいる著者の緻密な計算も感じられる。

 本書は、蒲生大将の拳銃はどこに消えたのか、その死は後世に伝わっているように自殺なのか、あるいは他殺だったのに隠蔽されたのかを軸にしている。物語が進むと、次郎はなぜ戦争が迫り命の危険もある昭和初期に暮らそうとしているのか、孝史が間違われている蒲生大将の隠し子・平松輝樹はどのように事件にからんでくるのかなどの興味も加わり、謎が複雑になっていく。それだけに、事件とは無関係に思えた場所にも伏線が張りめぐらされていたことが分かる謎解き場面には、衝撃を受けるはずだ。

 事件の真相が明らかになるにつれ浮かび上がってくるのは、人は歴史とどのように向き合うべきかという重いテーマである。歴史に詳しくないものの、日本が中国、そしてアメリカと戦争を始め、悲劇的な敗戦を迎え、戦後は復興して豊かな国を作るもバブル景気の崩壊でその繁栄も終焉したという事実を知る孝史は、当時の人たちが正しい選択をしなかったから戦争に至ったと考えていた。だが次第に、間違った選択をしたかもしれないが、それはできる範囲ですべきことを精一杯にやった結果であると考えるようになる。

 現代人は、本書に登場する昭和初期の人たちと同じように、未来がどうなるか分からないまま生きている。そのため、目の前で、後に二・二六事件のように歴史のターニング・ポイントとされる事件が起きても、それを理解しないまま事態を悪化させるかもしれないのだ。そうならないために、人は何をすべきなのかを描いた本書の役割は、昭和初期に似て内憂外患が社会不安を増大させている今、ますます重要になっているのである。

蒲生邸事件 上宮部みゆき

定価:本体680円+税発売日:2017年11月09日

蒲生邸事件 下宮部みゆき

定価:本体760円+税発売日:2017年11月09日