別冊文藝春秋

『あじゃりあじゃらか』藤沢周――立ち読み

文: 藤沢 周

電子版19号

 ただ、三〇歳になったばかりにもかかわらず世間から弾かれたような身。丸の内やら新橋やらのオフィス街、渋谷新宿の慌ただしく行きかう人々を見るよりは、自然の景色の一つ一つにぼんやりしている方がはるかに落ち着くというだけなのです。それに目下の私の……。

「二人……」

 と、くぐもった低い声が聞こえてきて顔を上げると、男の大きな顔の影がのっそりと目の前に現れました。最初逆光でよく見えなかったのですが、黒縁のメガネをかけて、犬のチャウチャウを思わせるような太った面持ちの中年男でした。一瞬、テレビに出てくる柴崎とかいう政治評論家の人かと思って、「海照僧正に……?」と声をかけようとした時、男の影が横を向いて別人だと分かりました。

 と言いますのも、真言宗智雲寺の僧正の一人、中村海照阿闍梨に時々政治家の先生や官僚の方々が黒塗りのクルマで秘密裏に会いに来たり、時には有名な芸能人の方が深々と帽子をかぶって来られることもあり、それらの客人を接待するための塔頭が、私の守る洞灯院なのです。

 ですから、政治評論家の柴崎氏に似ているチャウチャウ顔の男を見た時に、中村海照僧正との約束かと思ったわけです。客人の大体が厄除けのためのお祓いや護摩焚き、心願成就のご祈祷などで来られるのですが、まれに洞灯院に泊まり、海照僧正からかなり深いご忠告や示唆をいただく方も、いらっしゃいます。

「……お二人でいらっしゃいますね?」と、他のことを考えていた頭から、男の声の響きだけを頼りに尋ねると、

「……だからぁ、二人、だよ」

 と少しいらついた低い声で返って来ました。

「失礼いたしました。お二人様で、千円頂戴いたします」

 贅肉で頬や顎がだぶついた男の顔に視線を合わせてはいましたが、その背後に少し距離を取ってスマートフォンをいじっている若い女の影があるのが分かりました。もちろん、お連れを直視するなど絶対にやってはなりません。

「講堂、収蔵庫、名勝庭園、金堂、愛染堂、薬師堂の順に御廻りください。本日はよくこそ、ありがとうございました」

 二枚の拝観券と智雲寺の小さなパンフレットを渡し、合掌して頭を下げます。「ようこそ」ではなく、「よくこそ」と拝観客に伝えるのがミソだと、受付小屋の以前の担当だった権大僧都の密息さんに教わりましたが、理由はよく分かりません。まあ、単に雰囲気の問題なのでしょう。

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版19号文藝春秋・編

発売日:2018年04月20日


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