ゼロ戦ブームに歴史はあったのか
こういうことをいうと、「でも歴史教科書の問題や、中国・韓国などとの「歴史戦」に熱くなっている人は、いまもおおいじゃないか」と反論されるかもしれません。たしかに、あとわずかで終わる平成が「歴史論争の時代」でもあったことは、後世に(学問としての歴史がまだ存続していれば)書かれる文化史の、脚注くらいには残るでしょう。
しかし、政治的・社会的に「問題」になったときにだけ、歴史のまわりに寄ってくる人たちが、先ほどのべた「奥行き」という意味での歴史に関心をもっているとは、私には思いがたいところがあります。むしろ(左右とわず)自分のなかに最初から「正解」をもっていて、それが異なる人と戦って、排除したい。そういうメンタリティは、むしろチャート上のポジション争いに近い、平面的なものではないでしょうか。
私が大学に勤めていたのは、「歴史作家」としての百田尚樹さんのブームが頂点に達した時期でしたが、『永遠の0』(2006年、文庫化は2009年)も『海賊とよばれた男』(2012年)も読んでいた同僚は、百田氏の「極右的」な歴史観をしって、本気でおどろいていました。文学を専門とされる方でもです。
『永遠の0』という小説自体は、とくに特攻讃美でも零戦礼賛でもありません。搭乗者の使い捨てを前提としたメカニックの無意味さや、技術面ですら間もなく米軍機に追いぬかれた事実がえがかれ、あげられる参考文献も航空戦記のほかは、NHKのドキュメンタリーや半藤一利氏といった「無難な歴史観」です。そこからどうして過激な歴史修正主義がでてくるのかと、おどろくのは自然でしょう。
鍵となるのは、現代の若者(姉弟)ふたりが特攻隊員だった祖父の姿をたずねて、その戦友たちを訪ね歩くという構造の「無意味さ」です。この戦友たちがみなじつに饒舌で、かつどう考えても戦場にいた時点ではしらなかったはずの史実(海軍上層部のようすや、米軍側の事情など)を、延々と「証言」する。つかう用語も現代風ですね。戦前生まれの人物が大学名に「帝国」を入れずに、「東大法学部のトップクラス」と陸大出の参謀を比較したりします(文庫版p202-203)。
戦友たちが戦後に各種の書籍で戦史を学び、その成果をふまえて主人公に語っているという設定なのでしょうから、やはり平成のベストセラーとなるとともに歴史家のきびしい批判をあびた『少年H』(妹尾河童著、1997年)にくらべれば、矛盾がすくなく構成されているとはいえます。しかし、それなら主人公に自分で勉強させればよい話で、戦中派の証言に仮託する必要はないでしょう。
「未知の過去をたずねる」形式をとりながら、じっさいにはどの証言者を切りとっても、現代人たる「著者の百田氏の分身」としか出会っていないのが、『永遠の0』に奥行きがない理由です。そして、だから読まれたのです。そこで消費されたのは、歴史というより「現代のある特定の価値観」であり、だからその著者が、異なる価値観にたいして非寛容な人物であることとも矛盾しないのです。
公平を期すなら、平成の歴史論争で百田氏と正反対の側にいた「左翼的」な人にも、『永遠の0』と同様の擬似巡礼をくりかえすケースはよくみられます。自分がえがいた(その人にとっての)「理想の被害者」にしか出会う気がなく、そのイメージにあてはまる範囲でしか証言を聞かない。2014年に朝日新聞が報道を一部撤回するなど、混迷を深めた従軍慰安婦問題も、そのような人たちに引きまわされた感がありました。
この、歴史をたずねているはずが、自分にしか出会わない「旅」になるという構成は、文体にもあらわれています。容貌について具体的な描写がほとんどないので、肝心の祖父・宮部久蔵も背が高いことしかわからず、女性の登場人物はただ「美人」だとしか書かれない。読む前から読者の頭の中にある、偉丈夫や美女のイメージを代入して、各自満足してくださいということですね。これも平成を席巻した、ライトノベルやケータイ小説に通じる特徴かもしれません。
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