歩道にいた女性が悲鳴を上げた。通行人が足を止め、バスの方を見ている。
奥村はあわててブレーキを踏んだ。
曲がり角にあった交番から、制服警官も飛び出してきた。
警察官がバスの前部を覗き込んだ。奥村もフロントミラーで確認する。車体の下から足が出ていた。
警察官の一人が降車口の前部ドアを叩いた。奥村はドアを開いた。
「運転手さん、下がって!」
警察官が声を張る。
奥村はゆっくりと後退した。バスの下から人が現われる。中年の男性だった。
男性は地面にうつぶせている。頭部付近から血が流れ出し、アスファルトを染めている。
奥村の顔から血の気が引いた。
この二十二年間、ただの一度も事故を起こしたことはない。人身事故はもちろん、物損事故も皆無だ。
奥村は路上に倒れている男性を呆然と見つめていた。
何が起こったのか理解できず、思考が停止した。目に映る光景が悪い夢のように感じられる。周囲の喧騒も消えた。
警察官がバスを追いかけてきた。
「運転手さん、ブレーキ!」
警察官の声に気づき、我に返った。後ろからクラクションを鳴らされる。
急いでブレーキを踏んだ。バックモニターを確認する。バスの後部は、後ろにいたコンパクトカーのバンパー寸前で停まっていた。
警察官の通報を受け、パトカーや救急車が急行してきた。サイレンが鳴り響く。
野次馬がさらに集まった。若者やサラリーマンの何人かがスマートフォンで現場を撮影している。
パトカーから降りてきた警察官が車や通行人の整理をし、現場保存を始める。救急隊員がストレッチャーを下ろし、駆けてきた。
「運転手さん、降りて」
警察官に声をかけられる。
奥村はハンドルから手を離した。手のひらはびしょ濡れだった。立ち上がろうとする。膝が震えて、腰が落ちる。
目の前で男性がストレッチャーに載せられ、運ばれていく。
「そんな……そんな……」
奥村は立てず、そのままハンドルに肘をかけ、顔を伏せた。
-
『李王家の縁談』林真理子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/12/4~2024/12/11 賞品 『李王家の縁談』林真理子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。