2018.06.21 別冊文藝春秋

『刑事学校 Ⅱ』矢月秀作――立ち読み

文: 矢月 秀作

電子版20号

 歩道にいた女性が悲鳴を上げた。通行人が足を止め、バスの方を見ている。

 奥村はあわててブレーキを踏んだ。

 曲がり角にあった交番から、制服警官も飛び出してきた。

 警察官がバスの前部を覗き込んだ。奥村もフロントミラーで確認する。車体の下から足が出ていた。

 警察官の一人が降車口の前部ドアを叩いた。奥村はドアを開いた。

「運転手さん、下がって!」

 警察官が声を張る。

 奥村はゆっくりと後退した。バスの下から人が現われる。中年の男性だった。

 男性は地面にうつぶせている。頭部付近から血が流れ出し、アスファルトを染めている。

 奥村の顔から血の気が引いた。

 この二十二年間、ただの一度も事故を起こしたことはない。人身事故はもちろん、物損事故も皆無だ。

 奥村は路上に倒れている男性を呆然と見つめていた。

 何が起こったのか理解できず、思考が停止した。目に映る光景が悪い夢のように感じられる。周囲の喧騒も消えた。

 警察官がバスを追いかけてきた。

「運転手さん、ブレーキ!」

 警察官の声に気づき、我に返った。後ろからクラクションを鳴らされる。

 急いでブレーキを踏んだ。バックモニターを確認する。バスの後部は、後ろにいたコンパクトカーのバンパー寸前で停まっていた。

 警察官の通報を受け、パトカーや救急車が急行してきた。サイレンが鳴り響く。

 野次馬がさらに集まった。若者やサラリーマンの何人かがスマートフォンで現場を撮影している。

 パトカーから降りてきた警察官が車や通行人の整理をし、現場保存を始める。救急隊員がストレッチャーを下ろし、駆けてきた。

「運転手さん、降りて」

 警察官に声をかけられる。

 奥村はハンドルから手を離した。手のひらはびしょ濡れだった。立ち上がろうとする。膝が震えて、腰が落ちる。

 目の前で男性がストレッチャーに載せられ、運ばれていく。

「そんな……そんな……」

 奥村は立てず、そのままハンドルに肘をかけ、顔を伏せた。

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