卒業後二十五年間勤めてきた大学を辞めた。
受け取ったものに感謝しつつ、受け取れないものを返す。その繰り返しなのだろう。
アマチュア作家D・M・ディヴァインは教授でなく事務職員だったばかりに大学教員による探偵小説コンテストで受賞を逃したが、結果的には傑作ばかりを残したのだからその本職に意義はあったのだ。どんな経験も、糧に昇華しうるのは意思だということだ。
ディヴァインと比べるのは不遜に過ぎるが、だから在職中に本書『中野のお父さん』の巻頭作「夢の風車」が雑誌掲載された折には、北村薫さんからわざわざお知らせまでいただき、浅学非才として心から光栄に感じた。自分(の職業)が欠片でも、尊敬措く能わざる天才の創造に役立ったと感じられて嬉しかった。どころか、一生胸に残る勲章だと思う。活字中毒者ゆえ必然的(です、これは絶対に)に北村薫ファンであったという以上ではない、かつ職業がたまたま大学職員だった、というだけの相手に「今度の掲載短編には女性の大学職員が登場します」と葉書でお知らせくださったのが、いかにもこの不世出の作家の「粋」と、なにより人間全般に対する誠実さである。実在のモデルなど創作にあっては些末事なので、個人的すぎる回顧はこれくらいにしたい。ただし、モデルとは無関係の巧みな筋立ての詳細は本編に譲るが、探偵やワトスンでなく犯人側の心情に共振したのも久々だったし、犯人と探偵がともに最後までファーストネーム不明なのにも、かつて覆面作家であり覆面作家シリーズを懐にする著者らしさが横溢する。それ自体がきらきらと輝くばかりでなく、受け手の心の鈴が共鳴してころころと鳴り出すほど巧みに普遍を詠う文体は、この稀有な作家ならではと実感する。もとより読むことは呼吸に近く、吸って吐くそのときどきにぽかりと浮かんだ思いのしゃぼんだまを、今度はどうしてもつないで首飾りにしたくなる。読むだけでなく、書きたくなるのだ。最高の文章にはそうした不遜な野望を呼び起こす副作用がついて回るものなのである。