「家を買って猫を飼ったら、もう女性は結婚できない」。少し前までは、この言葉がネガティブな響きを持ってささやかれていました。でも今は人生に結婚は必須のものではなく、さまざまな幸福のかたちがある時代。家と猫のある人生は、女の幸せのひとつのステレオタイプです。
2月22日に刊行される小手鞠るいさんの『瞳のなかの幸福』は、ある30代の女性が、苦労のすえに家を手にいれ、そこに子猫がやってくるというストーリー。「幸福」のための材料は揃っているのですが、しかし、ただ「幸福」であるだけの物語にはなりませんでした。この作品を執筆しているうちに、小手鞠さんのなかで幸せの意味が変わっていったといいます。その心境の変化について伺いました。
――主人公の妃斗美は(ひとみ)は35歳。長く付き合った恋人から婚約を破棄され、仕事に打ち込んでいるものの、どこか息苦しさ、閉塞感を感じています。彼女に共感する30代は多いと思いますが、小手鞠さんは30代をどのような気持ちで過ごされましたか?
私の30代は、試行錯誤、暗中模索、五里霧中の時期でした。中学時代から小説家になりたいとあこがれてはいたものの、そんなに簡単にいくわけもなく、30代前半は書店でのアルバイトと学習塾の講師の仕事をしながら、作品を書いて、新人賞に応募しては落選する……という日々でした。何度、小説家になることをあきらめようと思ったかしれません。
バイト先の書店で、夫になる人と出会って結婚し、渡米。渡米後に書いた小説でやっと新人賞を受賞したのが36歳のときでしたが、ここからが大変でした。書いても書いても、原稿は没になるばかり、かろうじて出していただいた本も売れなくて、本当に苦しい時期を過ごしました。せっかく、新人賞をいただく、というチャンスに恵まれたのに、それを活かせていない自分。かといって、いまさら他の仕事をアメリカで探すわけにもいかず、本当にお先真っ暗という状態。ですので、30代の息苦しさ、閉塞感の描写なら、「任せてください!」という感じだったのです。
――その30代の閉塞感を打ち破るものとして、この物語では「家」と「猫」が出てきます。
結婚して子どもをつくり、幸せな家庭を築く……というある意味では定番のコースから外れてしまった主人公にとって、持ち家とは自分を支えてくれる確固たる場所であり、揺るぎない安心の砦になり得ます。そして、猫は、愛し、愛される対象そのものです。つまり、家があって、猫がいれば、何も男や結婚に頼らなくても、「幸せな家庭」「幸せな人生」「愛ある生活」が実現できます。私はたまたま気の合うパートナーに恵まれていますが、私自身も「家と猫」さえあれば、幸せに生きていけると確信を抱いています。
――この物語を通して「幸福」について深い考察がされているように感じました。『瞳のなかの幸福』を書き始める前と後で、小手鞠さんのなかで幸福の捉え方は変わりましたか?
まず、書き始める前や書いているさいちゅうは幸福とは「自分の手で築けるもの」だという意識が強かったのです。主人公は、幸せになるために家を手に入れ、さらに猫と巡り合って、いっそう幸せは、確かなものになります。最初に書き上がったものは幸福を手にした女性のハッピーエンドの物語でした。
しかし、書き終えて少し時間が経ってから「これはちょっと違うかも」と疑問の芽が芽生えてきました。もしかしたら、幸福とはもっと脆くて、儚くて、いつ壊れてしまうか、まったく先の見えないものなのではないか、と。これは、ネガティブな意味では決してなくて、まずハッピーエンドの小説を書き上げてみたからこそ、ごく自然にそのように思ったのです。
私自身、13年ほど前に愛猫を亡くすという悲しみを経験しているのですが、猫に先立たれたとき、それまで手もとにあったはずの幸福が、ガラガラと崩れ去り、跡形もなく、影も形もなくなっていることを痛いほど実感しました。ああ、あれが、幸福の実体だったなぁ、と思い出したのです。そして、もう一度、書き上げた小説を読み直してみたところ、そのような幸福の姿が描けていないと気づきました。
最初にもどって、書き直しました。その結果、幸福とは脆いものである、儚いものである、だからこそ、その幸福はかけがえのないものであり、一瞬一瞬が、光り輝いているものなのだということが、作品を通してはっきりと見えてきました。
――この作品の最後の章で起こるある事件が、小手鞠さんの思う「幸福」を見事に表していました。
幸福とは、与えられるものではなく、つかむものだと思うのですが、つかんだ幸福に永遠性はありません。幸福とは失われる運命にある、ということを自覚したとき、人は初めて幸せを実感し、本当に幸せになれるのではないでしょうか。幸せとは到達点ではなく、毎日の日常のなかにある。つまり、瞬間、瞬間に「幸福を感じることのできる能力」があるかどうかが、人が幸福に生きられるかどうかの分かれ目になるんじゃないかな。
私は今、そばに猫がいてくれた過去の幸福に照らされて、いまだに悲しいけれど、それでも幸福に生きています。しかし、この幸福もまた永遠に続くとは思っていません。思っていないからこそ、幸福を実感できるのです。……というようなことを、この作品から、主人公から、私が教えてもらったような気がいたします。
プロフィール
小手鞠るい
1956年岡山県生まれ。1981年第7回サンリオ「詩とメルヘン賞」を受賞し、三冊の詩集を上梓。1993年「おとぎ話」で第12回「海燕新人文学賞」を受賞し、作家デビュー。2005年『欲しいのは、あなただけ』で第12回「島清恋愛文学賞」を受賞。2009年原作を手がけた絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』で「ボローニャ国際児童図書賞」を受賞。ニューヨーク州ウッドストック在住。
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