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「出世列車」から「出稼ぎ列車」へ 東北と東京を繋いだある急行列車の記憶

「出世列車」から「出稼ぎ列車」へ 東北と東京を繋いだある急行列車の記憶

文:小牟田哲彦 (作家)

『座席急行「津軽」殺人事件』(西村京太郎 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『座席急行「津軽」殺人事件』(西村京太郎 著)

 JRのすべての特急・急行列車には、「のぞみ」「ひかり」のように列車愛称が付けられている。日本で初めて列車に名前が付いたのは昭和4年で、当時の鉄道省が旅客誘致策の一環として、東京~下関間の特急を一般公募により「富士」「櫻」と命名した。現在は、旅客案内上の便宜を図るほか、全国共通の座席指定券の発券システム上で列車を正しく区別しやすいように、という意義も持っている。

 ただ、世界を見渡せば、個々の列車を名詞で識別しなければならないルールなどなく、たとえば中国やベトナムなど主に共産圏の国々では、単に「51次列車」「第3急行」のように無機質な数字のみで列車を識別している。だから、日本でも個別の列車名がなくとも営業運行できるはずなのだが、戦後の日本の国鉄、それを受け継いだJRは、路線ごと、列車種別ごとに地名や花鳥風月などに由来するさまざまな列車愛称を付与し、それらは利用者にも広く受け入れられてきた。

 ところが、かつての長距離列車の中には、国鉄が命名した公式の列車愛称の有無にかかわらず、利用者の間で別の異名をとった列車が存在した。東京~博多間を走った寝台特急「あさかぜ」は、客車の半数以上をA寝台車、グリーン車、そして食堂車が占めた豪華編成時期に「殿様あさかぜ」と呼ばれた。

 他にも、新宿から毎晩出発する中央本線の普通夜行列車は、アルプス方面への登山客が多く利用するので「山岳夜行」「山男列車」、新大阪あるいは天王寺から紀勢本線方面へ南下する寝台列車「はやたま」(昭和53年までは「南紀」)は、紀伊半島で早朝から海釣りをする関西圏の釣り客に愛用されていたため「太公望列車」、といった具合である。

「出世列車」として羨望の的に

 本作品の舞台となっている急行「津軽」は、そうした異名を持つ伝統列車の代表例であった。本作品では「出世列車」「出稼ぎ列車」の二つの名が挙げられているが、「津軽」の別名として広く知られているのは「出世列車」であろう。

「津軽」は昭和31年11月、上野~青森間を奥羽本線経由で走る夜行列車に付けられた列車愛称である。長距離を走る夜行列車であっても特急や急行ではなく普通列車であることが珍しくなかった当時、奥羽本線経由で上野へ直通する急行列車は「津軽」が初めてだった。そのため、とりわけ青森県西部・秋田県・山形県にまたがる奥羽本線の沿線各都市にとって、その存在感は大きかった。一等車(現在のグリーン車)や一等寝台車(のちのA寝台車)が組み込まれた急行「津軽」は奥羽本線を代表する優等列車であり、集団就職などで上京した沿線住民にとっては、「『津軽』の一等寝台に乗って帰郷する」ことが「出世して故郷に錦を飾る」ことを意味するようになった。「出世列車」の異名はここから来ている。

 昭和45年に寝台特急「あけぼの」が同ルートを走破するようになると、急行列車である「津軽」は奥羽本線の筆頭列車としての地位を失う。だが、「津軽」の人気はその後も根強く、座席車のほかにA寝台車とB寝台車が連結される多彩な編成が15年ほど続いた。特急に比べて廉価で利用できる急行「津軽」は、最上級のA寝台でも「あけぼの」よりは利用しやすいので、この時期に「『津軽』のA寝台で故郷に帰る」往年の目標を実現した人もいたかもしれない。

庶民派急行として愛用された晩年

 東北・上越新幹線の上野開業に伴う昭和60年3月のダイヤ改正で、「津軽」の編成から寝台車が外され、普通座席車のみの10両編成となった。「津軽」が名実ともに「出世列車」の看板を下ろしたのは、このときと言ってよいだろう。翌昭和61年11月のダイヤ改正では8両編成に減らされている。

 その後、山形新幹線(軌間1435ミリ)建設に伴う改軌工事により、狭軌(軌間1067ミリ)の在来線列車は平成2年9月から奥羽本線福島~山形間を走れなくなったため、「津軽」は仙台廻りで仙山線を経由するようになる。このとき、車両も伝統的な汽車のスタイルである客車から電車に変わった。そして、平成5年12月のダイヤ改正で臨時列車に格下げとなり、平成10年以降は多客期にも運転されなくなってしまった。

 本作品に登場する「津軽」は、「座席急行」のタイトル通り、寝台車が外されたこの晩年の姿である。具体的には、冒頭のシーンで「14系と呼ばれる座席車だけの十両編成」と記されているので、普通座席車のみの10両編成だった昭和60年11月中旬の「津軽」ということになる。

 そんな「津軽」に、東北の各駅から出稼ぎ労働者が乗り込んでくる。彼らの家族も「津軽」で上京したり帰郷したりする。「出世列車」の時代とは異なり、沿線住民にとって身近な庶民派急行として描かれている。新幹線と聞いて日本人の多くが「のぞみ」「ひかり」の名を思い浮かべるがごとく、奥羽本線の沿線住民にとって東京への列車と言えば「津軽」、というほどの定着ぶりが、本作品から窺える。

上り列車は東北の空気ごと上野駅へ運んだ

 同じ「津軽」でも、上野発の下り列車と、本作品で主たる舞台となっている上野行きの上り列車とでは、趣きが大きく異なる。

 上野発の下り「津軽」は、現在の新幹線や特急列車なら通過してしまいそうな中小規模の駅にもこまめに停車していく。「出世列車」から「出稼ぎ列車」へと時代が変わっても、大都市以外の農村地域の人たちにとっては、懐かしい故郷への直通列車に変わりはなかった。私は晩年の、まさに本書で描かれているような座席急行時代の下り「津軽」に何度か乗車したことがあるが、夜10時半頃に上野駅を出発した直後の車内は、酒を酌み交わしながら東北弁で談笑するグループがあちこちに見られた。都心を週末に出発する夜行列車の利便性ゆえ行楽客も多く、総じて明るい雰囲気だったように思う。

 一方、上りの「津軽」は、本作品の車内や早朝の上野駅到着の描写から、当時の実際の様子を垣間見ることができる。

 

 ほとんどの人が、自由席の方に乗って行く。

 彼等は無口だった。酒を飲む者もいない。たいていの家で、昨日送別会が開かれて、ご馳走を食べ、酒を飲んだからである。

            *

 一般の乗客に混って、明らかに出稼ぎとわかるグループが一組、二組と降りて来た。

 陽焼けした顔の、四、五十代の男たちだからすぐわかる。背広を着ていても、ほとんどネクタイはしていない。両手に荷物を持っている。そして物静かだった。

 

 これらの光景からは、旅の始まりの華やいだ高揚感よりも、まるで冬の東北の空のような、どこか重い雰囲気が伝わってくる。上りの、とりわけ冬の「津軽」は、車体に付着した前夜の雪とともに、こうした空気をそのまま早朝の上野駅に運んできたのである。

「夜行列車」と「出稼ぎ」の時代

 かくも独特の存在感を有していた伝統急行が姿を消して、すでに20年以上が経っている。山形新幹線の開業により奥羽本線の福島~山形間へは在来線が直通できなくなったため、本作品の「津軽」と同じルートを走る列車は、もう二度と運行できない。

 それに、「津軽」のみならず全国の夜行列車がほとんど廃止されてしまい、「夜行列車で上京する」こと自体が、すでに過去の旅行形態となっている。とりわけ奥羽本線では、山形や秋田へ新幹線が通じ、東北新幹線が新青森から東京まで約3時間で直通するようになった今、同じ区間を13時間以上かけて走る夜行列車に存在意義を見出すのは難しい。

 同様に、農閑期に農村から都市部へ働きに出る出稼ぎという労働形態も激減している。厚生労働省によれば、昭和47年度には全国で54万9千人もいた出稼ぎ労働者は、平成22年度には1万5千人を数えるのみ。「出稼労働者雇用等実態調査」という同省の統計調査は、平成17年度を最後に廃止されている。北国の自治体では今も出稼ぎ支援部門を置き、出稼労働者手帳という公的身分証明書も存在するのだが、農閑期の出稼ぎという労働形態は、もはや国として把握するに及ばないほど小規模な働き方とみなされているのだ。

 そんな時代から遡って本作品に接したとき、往時を懐かしむ読者層がいる一方で、そもそも農家の出稼ぎも夜行列車もリアルタイムではよく知らない、という世代の読者も少なくないに違いない。昭和後期、国鉄末期には一般的だったその二つの存在を本作品の「津軽」の描写からどう感じ取るかは、読者の世代や出身地によって分かれるだろう。

 ただ、これほど地域経済や社会生活のあり方と密接な関係を持ち、沿線住民に強い存在感を抱かせる個性的な列車は、令和以降の日本の鉄道にはもはや現れないのではないだろうか。その意味で、本作品は急行「津軽」を通した一時代の社会の記録としての価値もある、と私は考えるのである。

文春文庫
座席急行「津軽」殺人事件
十津川警部クラシックス
西村京太郎

定価:682円(税込)発売日:2019年08月06日

電子書籍
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西村京太郎

発売日:2019年08月06日

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