『どうかこの声が、あなたに届きますように』浅葉なつ――立ち読み
- 2019.08.22
- ためし読み
TALK#01 伊澤春奈、31歳
「昼飯食って、そのまま管理物件の掃除と撮影行くんで、戻り十五時で」
正午まであと十分というところで、永井(ながい)がそう言って予定を知らせるホワイトボードに書き込んだ。都心から電車で四十分ほど離れた町の、賃貸と売買を両方手掛ける昔ながらの不動産屋は、全国展開している店ほどの派手さも、あか抜けた感じもなく、『前田不動産』と書かれた古びた看板に、ただただ地道にやってきましたという風情が漂っている。十月の今は転勤の時期も終わった閑散期で、来客は一日二、三組あればいい方だった。
「掃除に二時間もかかる? どんだけ綺麗にするつもりよ」
サイトの更新用のページを作成していた飯島(いいじま)が、すかさず顔を上げた。一児の母でもある彼女は一番の古株で、実質この店を支えていると言っても過言ではない。
「二件行きますって。アプリローズとファミリーハイツ。移動時間考えたら許容範囲でしょ。サイト用の写真も撮ってきますから」
いつも昼過ぎにくるオーナーはまだ顔を見せず、店内に客はいない。二十代半ばの永井はへらへらと笑ってごまかし、ホワイトボードの脇に吊ってある営業車の鍵を手に取った。入社して一年、決して仕事ができないわけではないのだが、さぼり癖と横着癖のある彼は、一週間に二回はこうした外出を繰り返している。
「あれ、絶対どこかで昼寝してるわよ。掃除だってやってるかどうか」
入口扉につけられたベルを軽快に鳴らして、永井が店を出ていく。それを飯島が苦い目で見送った。
「オーナーが注意しないもんだから、調子に乗って」
「確かお知り合いの息子さんでしたっけ?」
手元の経理書類をファイルに綴(と)じながら、春奈(はるな)は尋ねる。
「そうよ。コネもコネ、大コネよ。就職した会社を一年で辞めて、行き先がないからどうにかしてくれって泣きつかれたのよ。そもそも会社を辞めた理由が、『朝起きられないから』よ? 舐(な)めてるとしか思えないでしょ」
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