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『どうかこの声が、あなたに届きますように』浅葉なつ――立ち読み

『どうかこの声が、あなたに届きますように』浅葉なつ――立ち読み

浅葉なつ

電子版27号

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

 一般的な会社がだいたい朝九時に業務開始であるのに対し、前田不動産は十時の開店に間に合うようにくればいい。そう考えれば一時間は余裕があるが、閉店は夜七時で、残務処理や閉店作業を考えると、店を出られるのは八時前になる。睡眠時間はそれほど変わらないのではないか。

「今度もう一回オーナーに報告してやる」

 苛立ちに任せてパソコンのエンターキーを叩く飯島に、春奈は苦笑する。もともと飯島は、結婚前からずっとこの店で働いていたと聞いている。その後永井が入り、同時期にずっと事務員をしていた女性が、親の介護のために退職することになったので、その代わりとして春奈が入った。職種は違うものの、永井とはほぼ同期入社と言っていい。

「伊澤(いざわ)さんはこんなに優秀なのに、どうして永井くんは……」

 ぼやく飯島の言葉尻に入口のベルが重なって、来客を知らせた。

「いらっしゃいませ!」

 途端に営業用の笑顔を浮かべて、飯島が立ち上がる。春奈は客をカウンターへ案内する飯島を横目に、お茶を用意するために給湯室へ向かった。

 

 

 小学生の時から学級委員を任されたり、生徒会役員を務めたりしてきた春奈は、趣味といえば本を読むことくらいで、それ以外の特技や秀でていたことがあったわけではない。高校は教師の勧めでそこそこの公立校に進み、大学は親の言う通り家から通える私立大に行ったが、特に不満もなく、とても平和で地味な学生生活を送った。大学を卒業して、最初に就職したところは大手通信会社で、企業研究を重ねた上での第一志望だったので親も喜んでくれた。道を踏み外すことも、逸れることもなく、平凡ではあったかもしれないけれど、自分らしい行程を歩んできたと思っていた。

 けれどそれは、本当に最善の道だったのだろうかと、今になって考えるときがある。

別冊文藝春秋からうまれた本

電子書籍
別冊文藝春秋 電子版27号
文藝春秋・編

発売日:2019年08月20日

プレゼント
  • 『もう明日が待っている』鈴木おさむ・著

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