憎悪は増殖する
アルジェリア戦争のさなかに徴兵を忌避したことで母国フランスには住めなくなり、亡命先の西ドイツ――ベルリンの壁の崩壊よりはるか以前のことである――でダニエル・ユイレ Danièle Huillet とともに難儀しながら映画活動を始めたジャン=マリー・ストローブ Jean-Marie Straub は、やがて『妥協せざる人々』(Nicht versöhnt oder Es hilft nur Gewalt, wo Gewalt herrscht, 1965)や『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』(Chronik der Anna Magdalena Bach, 1968)の成功で、ニュージャーマン・シネマの中心的な逸材と見なされるようになる。そのストローブは、1975年、共同監督の地位にある伴侶のダニエルをともない、晴れて合衆国に足を踏み入れる。亡命者として、西ドイツをはじめ、スイスやイタリアに住むこともあった彼らにとって、これが初めてのアメリカ訪問である。ふたりの最近作『モーゼとアロン』(Moses und Aron, 1975)が、ニューヨーク映画祭の招待作品に選出されたからだ。
彼らの作品の日本初公開は『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』が1985年のことだから、これは異例に早い国際的な認知の機会だといえる。だが、用意されていたニューヨークのホテルに着くなり、この厄介な亡命者たちは、いきなりジョン・フォード John Ford の映画が見たいといいだして、映画祭のプログラム・ディレクターであるリチャード・ラウド Richard Roud を混乱に陥れる。いったい、なぜ、いま、ジョン・フォードなのか。そこにストローブ=ユイレの側からの挑発の意図があったとは思わないが、なぜフォードなのかが、ラウドにはまったく理解できなかったのである。
すでにゴダールをめぐる著作(Godard, Indiana University Press, 1970,『ゴダールの世界』、柄谷真佐子訳、竹内書店)があり、のちにアンリ・ラングロワについての書物(A Passion for Films – Henri Langlois and the Cinémathèque Française, The Johns Hopkins University Press, 1999,『映画愛――アンリ・ラングロワとシネマテーク・フランセーズ』、村川英訳、リブロポート)をも書くことになる映画祭ディレクターのラウドは、アメリカ人でありながらもフランスの批評誌「カイエ・デュ・シネマ」《Cahiers du cinéma》の同伴者的な存在と見なされており、どちらかといえば「前衛」的といってよい批評家である。彼は、まだ三本の長編映画しか撮ったことのない国際的にもほとんど無名だったジャン=マリー・ストローブをめぐる書物『ストローブ』(Straub, Viking Press, 1972)を世界で初めて刊行したことで、批評界の注目を集めていた。その冒頭部分に、ロベール・ブレッソン Robert Bresson、ジャン・グレミオン Jean Grémillon、ジャン・ルノワール Jean Renoir、ゴダール Jean-Luc Godardといった名前をストローブが好む作家たちだと書いているラウドは、ごく当然のことのように、『モーゼとアロン』の作者を「カイエ・デュ・シネマ」系の「前衛作家」とみなしていた。その「前衛作家」が、「古典的」というよりむしろ「保守的」とみなされていたジョン・フォードに関心をいだくことなど、あってはならないとラウドは考えていたはずである。
『モーゼとアロン』のクレジットによれば、ストローブとユイレの名前は、製作、監督、編集の各部門にともに連ねられており、現在なら、監督名としてはジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレという二つの名前を列挙するのが普通であり、ストローブ=ユイレと表記することもひろく受け入れられている。だが、リチャード・ラウドがその書物の題名として選んだのは、あくまでストローブひとりの名前でしかなかった。もっとも、それは「時代」のなせるわざとして、ひとまず容認することもできるかと思う。ところが、ストローブ=ユイレは、ラウドにとってはすでに「終わった」監督にほかならぬジョン・フォードをぜひとも見たいといいはって聞かない。おそらく、その意思疎通の困難さにも「時代」が介在していると見てよかろうと思うが、それがいかなる「時代」であったのかは、のちに詳しく触れることにする。
ブレッソンやルノワールやジャン・グレミオンならともかく、フォードが好きだなんてことを、お前さんはどこにも書いたことがなかったはずではないか。「カイエ・デュ・シネマ」誌の記事には精通していたはずのラウドは、ひそかにそうつぶやいたはずである。だが、ストローブ=ユイレの意志は頑固なまでに硬い。かくして、想像もつかない事態に遭遇して混乱したニューヨーク映画祭のディレクターは、同じ都市に暮らしていたひとりのジョン・フォード・マニアの青年に声をかけ、ひとまずふたりを彼に託して厄介ばらいすることに成功する。
『モーゼとアロン』のニューヨーク映画祭での上映がどのような反応を導きだしたかについては、今日あまり語られることがない。仔細に探ってみればしかるべき批評テクストにはたどりつけるだろうが、いまはそうしているときではない。ところが、ストローブとユイレという厄介なふたりを託されたフォード・マニアの青年が彼らをどう遇したかの詳細は、いまでもよく知られている。彼は、ふたりを自宅に連れて行き、『戦争と母性』(Pilgrimage, 1933)と『ドノバン珊瑚礁』(Donovan’s Reef, 1962)の二本を、所蔵の16ミリ・プリントから選んで上映して見せたというのである。デヴィッド・ボードウェル David Bordwell がその小津論(Ozu and the Poetics of Cinema, Princeton University Press, 1988,『小津安二郎――映画の詩学』、杉山昭夫訳、青土社)を執筆中に16ミリ・フィルムを参照していたように、DVDなど存在してはおらず、ヴィデオの質もまだまだ劣悪だったこの時期、16ミリを収集することの方が、合衆国の研究者たちの間でははるかに推奨されていたのであり、むしろそれが常道だったとさえいえる。
それまで未知だった青年のロフトの床にごろりと寝ころんだストローブとユイレは、すでに触れておいたフォードの二作を見てたいそう喜んだようだ。「ストローブは頬を紅潮させながら、自分が映画でやってみせたいのは、ジョン・フォードと溝口健二を結びつけることだ」とつぶやいたという。1975年までこの二本の作品を見ていなかったというのだから、このふたりもまた、ジョン・フォードについてはほとんど素人同然の存在だったといえる。だが、それについてはのちに触れるとして、いまは、どうしてそのように些細でプライベートな逸話が、40年後のいまにも伝えられているのかを知ることが肝心なのである。それは、ふたりを自宅に招待したそのフォード・マニアの青年が、のちにその言葉に耳を傾けるにたる信頼のおける研究者となり、個人的な想い出として、1975年のストローブ=ユイレを自宅に招待した日の例外的な体験を、回想記として書きとめているからなのである。フォード・マニアの青年は、やがて『ジョン・フォード――人とその作品』(Tag Gallagher, John Ford – The Man and His Films, University of California Press, 1986)を出版することになるタグ・ギャラガーその人だったのである。
この続きは、「文學界」12月号に全文掲載されています。