デビュー作の『デフ・ヴォイス』を書いたキッカケが「ろう者という存在を知ってしまったから」であるならば、本作『漂う子』を書いたキッカケもまた「居所不明児童という存在を知ってしまったから」に他ならない。
今から七年ほど前のことだ。デビューしてまだ間もない頃で、当時の私は中々「二作目」が書けずに苦しんでいた。書きたいことは山ほどあるのだが、それがうまく物語になってくれない。「居所不明児童(住民票を残したまま所在が分からなくなってしまった子供)」について書かれたルポルタージュを読んだのは、そんな時だった。
その時自分で抱えていたテーマは、「親子とは」というものだった。あまりに分母が大きすぎて、いかような描き方もできてしまう。実際、「チェンジリング」(子供の取り違え)を元にしたサスペンスや、「被告の娘」(文字通りある重大事件の犯人の娘)の視点によるものなど、いくつものストーリーを考えたが、どれも「自分にしか書けないもの」にはほど遠い気がした。共通しているのは「親子関係の絶対性を疑う」というモチーフだったのだが、自己に特殊な体験があるわけでもなく、どうしても借り物の印象がぬぐえなかった。
「居所不明児童」について知った時、初めて具体的な映像が頭に浮かんだ。父親に手をとられ、雑踏をさまよう一人の少女の姿。「漂う子」というタイトルも思いつき、もしかしたらこれだったら書けるかもしれない、そう思った。しかし関連資料に当たっていくうちに、そこで描かれている子供たちを巡るあまりに悲惨な現実――虐待・貧困・援助交際、児童ポルノ、棄児etc.――に打ちのめされ、結局書き上げることができなかった。
それから三年ほどが経った。その間も二作目を書けずに、もはや小説家としての芽はないな、と諦めかけた時、ふとあの少女の姿が浮かんだ。
「漂う子」とは、もしかしたら自分のことなのかもしれない。そう思った瞬間、初めて、あの少女と自分がリンクした。
父親と長年の確執があり、親になることにためらいを感じている青年。自分を投影した主人公を設定し、彼が消えた少女を探していく過程を文字にしていくうちに、会ったこともない、知るはずもない少年少女たちが次々に立ち現われ、動き出し、しゃべりだした。
小説としての完成度については分からないが、間違いなく「自分にしか書けないもの」になったと思う。読んでいただければ嬉しい。