- 2015.08.27
- 書評
ろう者の世界を「通訳」してくれている爽やかな距離感と愛に溢れたミステリー
文:三宮 麻由子 (エッセイスト)
『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』 (丸山正樹 著)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
少女の手がふいに動いた。
〈おじさんは、私たちの味方? それとも敵?〉
これは、主人公荒井尚人が作品最初の事件で容疑者の手話通訳を行った際、容疑者の娘から投げかけられた質問である。尚人と何の関係もない読者でありながら、この問いかけにはドキリとさせられる。そしてそのドキリが、尚人自身と読者を作品の深みへと導く原動力となっている。この作品は全編を通じて哲学的な問題を内包しており、ミステリーでありながら考えるヒント満載の人生論でもあるのだ。
一読してすぐに現れる主題は、聴覚障害の世界を生きる人々の実態であろう。
ただ、それに直接光を当てるというよりは、その世界を「身近に見ている」人物の目を通して現実を語らせている。当事者ではなく、当事者にかぎりなく近い健常者を軸にしているため、啓発的な部分に気を取られることなく、普通のミステリーとして読むなかで自然に実情を受け止めていける。それがこの作品の魅力であり、強さといえるだろう。
聴覚にハンディをもつ「ろう者」同士の間に生まれた耳の聞こえる子供を、英語で「コーダ」という。Children of Deaf Adults(ろう者の親の子ども)の略だが、筆者を含め、聴覚障害の世界と近しくない人にとって、この言葉は初めて聞くものではなかろうか。作品はこの言葉を効果的に紹介し、「コーダ」である尚人がかかわる二つの事件と、彼自身の生き方の変化という物語を併走させる。
両親が手話を使う「コーダ」は音声による日本語より先に手話をおぼえるため、心理的には「ろう者」という指摘が作品中にある。尚人もそのような経験を持ちながら社会に出ていく。だが一歩家を出れば彼は「健常者」であり、「普通の人」として社会参加し、恋愛する。家族のことを語らなければ「コーダ」としての立場を知られることはない。
それでも「コーダ」であるという事実は、彼にとって開かずの間ならぬ「封印の間」として厳然と存在する。彼はそんな秘め事を抱えたまま、二十年間警察の事務員として働いた。四十三歳で失職し、求職難に直面してやむなく手話通訳の仕事を選択肢に入れると、この「封印の間」がにわかに自己主張を始める。少女の質問は、そんな尚人にふたたび突きつけられるのである。
「あなたは私にとってどんな存在ですか」という問いは、対人関係において、私たち自身が相手に対して常に無言で発し、相手からも発せられている。私たちはその質問と回答を繰り返しながら、自分の立ち位置を決め、表明している。この点は、障害の有無を超えた普遍の次元で読むことができる。ここに、作品の視野の広さが感じられる。
同時にこの作品は、当事者に限りなく近い人という存在の大切さを自然な形で伝えてくれる。
残念ながら悲願は叶わず、統合教育を受ける夢は、米国留学で一般のハイスクールに入るという形で実現した。このときも、留学先を力を合わせて探してくれる「私に近い健常者」たちがいた。
彼らの発言は、健常者の側から健常者の言葉で語られる。受け止める健常者も同じ立場で聞くことができる。当事者が力いっぱい発言するよりも、このような人たちがときとして効果的に事態を進展させてくれる。点訳ボランティアのように何かを実際に「してくれる」人に限らない。普段は喧嘩もするような友達でもいいのだ。ただ、いざ事が起こったとき、「そっちの言い分も分かるけど、こっちにはこういう事情があるんだ、分かってやってくれよ」と正確な言葉で交渉相手に言ってくれる人が「私に近い健常者」なのである。
尚人は手話ができる健常者というだけで家族に頼られることを嫌うが、半ば無意識にその役割を受け入れてもいる。作品は、彼が単に家族に頼られているのみならず、当事者と無関係に動く社会の一員でもあるという二つの実態を無理なく共存させている。そのため、助けを必要とする当事者として読んでも、美化や誇張の印象がほぼ皆無なのである。
障害から離れ、筆者にとって強く共感できた主題は、異なった二つの世界の「架け橋になる」というテーマだ。実生活のなかではいつも障害を意識しているわけではなく、むしろ普通の人間として行動するほうがずっと多い。だから筆者には、日々の仕事である翻訳と直結している「架け橋」のテーマのほうが近しく思えた。
第二の事件で手話通訳をしたとき、尚人は容疑者が黙秘権という概念を理解できていないことに気付き、それを法廷で裁判官たちに伝える。その場面を見て、彼に全幅の信頼をおく人物が現れる。黙秘権が理解できないことが分かった時点で、尚人は容疑者とコミュニケートできていたから、というのが根拠だった。
尚人は、通訳として中立であろうとする。容疑者が自分と身近な「ろう者」だからといって感情的に味方することはない。
しかし、容疑者に不利なことが生じたとき、自然に不利な立場にある側が抱える問題を思いやる。敵に対する味方という意味とは違うが、相手を理解し、相手の立場に立って発言しようとする。そうでなければ、黙秘権が理解できていないという容疑者の状況は見抜けなかっただろう。
誰かの言葉を仲介して伝えようとするとき、人は好むと好まざるにかかわらず、発言者に寄り添うことになる。敵か味方かという問い方に答えるなら、味方になるわけだ。正確な通訳をするためにはこの「寄り添い」の感覚が不可欠だ。
ただしそれは発言者に近づくことであって、必ずしも同意することではない。このような距離感は、二者の間に立って両者の発言を伝えるという役割において大切な資質となる。
筆者はエッセイ執筆以前から外国通信社に勤務し、経済ニュースの翻訳を担当している。経済指標ひとつ取っても、アナリストの分析表現には経済だけでなく政治や文化面での背景がある程度体感的につかめていなければ理解できないものがある。要人発言などはそういう面がさらに強い。聖書やコーランになぞらえた表現のほか、ギリシャ神話、インドの故事など、政治経済の仕組みに関する知識だけでは翻訳できない言葉が無数に出てくる。
そのとき、「寄り添い」の感覚が必要になる。もし自分がこの大統領だったら、このアナリストだったら、この政治家だったら、この被害者だったら、この兵士だったら……。魔法の呪文をかけるように発言者の心に飛び込んでみる。すると、ぴたりと嵌る日本語が降りてきたりするのである。たとえ発言者と反対の意見をもっていても、正確に訳すには一度はそこまで入り込む必要がある。翻訳がうまくいくときは、原文が正確に「理解できた」ときより、この「寄り添い」の感覚がうまく使えたときである。
黙秘権の一件で、尚人は容疑者に適切に寄り添い、通訳者の資質を開花させたのである。
著者は単行本の後書きで、障害の有無にかかわらず、大きな声を上げられない人の声を伝えたいと書いている。主人公が当事者でなくコーダであることは、その意図を象徴している。そこに作者の真摯さを感じる。
最後に、この作品の読後感の清清しさに触れておこう。悲しい事件、痛ましい結果がミステリーらしく散りばめられており、読者は時折、事件を先取りして悲惨な結末を予感する。けれども、曲折の末尚人が行き着いた結論は、ほっと胸をなでおろさせてくれる。もちろん、予想外の展開もばっちり用意されているのでご期待あれ。
障害をテーマにしながらミステリーの王道をはずさない姿勢は、奥様を介護しておられる著者が「当事者に近い健常者」、つまり尚人の立場にあるから貫けた面があるのではないかと思う。まるで本全体が聴覚障害の世界を通訳してくれているような爽やかな距離感をもち、優しい愛に満ちた作品を、ゆっくりとお楽しみいただけたら嬉しい。
デフ・ヴォイス
発売日:2015年09月18日
-
『リーダーの言葉力』文藝春秋・編
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/12/17~2024/12/24 賞品 『リーダーの言葉力』文藝春秋・編 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。