特集

『ジョックロック』に笑え

文: 額賀 澪

6月9日発売 文庫『風に恋う』(額賀澪)番外編を公開!

『風に恋う』(額賀 澪)

 でも。

『――彼の朝は早い』

 しっとりとしたナレーションとともに、まだ薄暗い朝の正門をくぐる一台の自転車がテレビに映る。千学の制服を着て、背中に楽器のケースを背負う男子生徒の顔がアップになる。「不破瑛太郎」と、彼の名が紹介された。名前と顔は知っているけど、話したことはない奴だった。

『いつもこんなに早いの? 大変じゃない?』

 無人の音楽室に足を踏み入れた彼に、番組の撮影スタッフが問いかける。

『楽しいから』

 不破瑛太郎はそうはにかんで、朝日が昇って白んできた窓の外を見つめる。背負っていた楽器ケースから出てきた楽器は、大河も知っていた。サックスだ。サックスってやつだ。

 野球部ですらまだ練習していない時間から、彼は一人でサックスを吹いた。その横顔を見つめながら、何故か自分の右肘を撫でていた。慌てて食べ終えた食器をキッチンに持っていって、そのまま風呂に入った。

 湯船の中で、自分の肘を睨みつけた。日に焼けて真っ黒になった肘に痛みや違和感はない。でも、いざ投球をし始めると痛みが走る。

 離断性骨軟骨炎を大河が患ったのは、今年の三月だった。肘の外側の軟骨が剥がれる、野球肘の一種だ。突然肘が腫れ、痛んで、曲げ伸ばしができなくなった。

そして、大河は高校最後の大会に出られなくなった。

 ふと、耳の奥で先ほど聞いたサックスの音が蘇る。目を閉じると、瞼の裏の暗闇を、まばゆい光を放つ蛍が飛んでいくのが見えた。光が尾を引き、鋭く眩しい線を引く。

「……吹奏楽部か」

 湯で顔を洗って、天井を見上げた。


  * * *


「野球応援ってことか」

 そう口にした吹奏楽部顧問・三好先生の表情をどう受け取ればいいか、大河には判断できなかった。微笑みを浮かべつつも真剣な目をした先生は、何故か一度音楽準備室を出て、三人の生徒を連れて戻ってきた。

 そのうちの一人の顔を見て、大河は思わず「げっ」と声を上げそうになった。向こうも、似たような顔をした。

「悪いな。部長だけ何故かいないんだ。早々に一人で練習しに行きやがった」

 先生が連れて来たのは、吹奏楽部の副部長の徳村と、金管楽器と木管楽器それぞれの統括をしているという、花本と宮地だった。宮地とは同じクラスだ。それも、三年間。

 大河が思わず顔を顰めてしまったのは、三人の中に宮地がいたからだった。

 出鼻を挫かれたなあと思いながらも、大河は先ほどと同じ説明を三人にした。

 自分が野球部の試合の応援を取り仕切っていること。千学の応援部は部員不足で休部中で、野球部の補欠とOBで一回戦、二回戦の応援を行ったこと。

風に恋う額賀 澪

定価:本体790円+税発売日:2020年06月09日


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