特集

空から降る石、中からあく穴

文: 山下 澄人

文學界6月号

「文學界 6月号」(文藝春秋 編)

 気持ちが悪かった、軽い吐き気、昼に薄いパンで作ったたまごサンドが食べられなかった、たまごはああしたときくさい、夜はそばを食べたが半分残した、食べられないのは変だ、とても変だ、からだが変じゃないかと思うのは面倒くさい、気圧が下がっていた、気圧の下がる前からわたしは具合が悪くなる、気圧だ、気圧だ気圧だ寝たらなおる。

 そんなことより明後日は読書会だ、わたしが何年か前に書いた本を参加者が読んであれこれ話をする、わたしも読み返しておく必要がある、わたしは自分の書いたものを読み返したりしない、目も悪いし億劫だ、面倒くさい、読み返さずに参加してみようかとも考えたが寝床に横になり読みはじめた、

 

「揺れますよ」

 と船乗りがすれ違いざまささやいたことに乗船口からずいぶん歩いて気がついた。振り返って船乗りを見た。光る黄色が横へ一本はいった紺の上着の船乗りの背中は広くヘルメットは白い。その向こうは夜だ。そこから次から次へトラックが来て人が来る。しかし船乗りはただ立っているだけで誰にもささやいたりしない。見てもいない。なぜあの船乗りはぼくにだけささやいたのだろう。ほんとうにささやいたのか。ささやいてなどいないのじゃないか。そもそもあれは船乗りか。船乗りだとしてあれはあそこにいるのか。いたのか。(『しんせかい』)

文學界 6月号

2020年6月号 / 5月7日発売
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