この作品は、戦争の姿を描いた物語としても印象深い。
文献上に、「ほぼ全滅した」という簡潔な一文で記された部隊の記録。
とてつもない数の人生が、誤った作戦に翻弄され懐かしいふるさとに二度と戻ることのなかったひとたちが、たった6文字の中に乱雑に葬られている。
戦争を生き抜いた当事者であるお父さんは、その体験を語ろうとはしなかった。
だから春樹さんは記録を調べ、戦争中のお父さんの行動を追う。
読み手もまた、文献の簡潔な一文を斜め読みするのではなく、実在したひとりの青年の足跡を見つけて辿っていく。
そうすると、歴史の教科書の中では数行でしかなかった戦争が、顔と名前を持つ誰かの経験として目の前に立ち現れる。
自らの戦争体験を語らなかったお父さんが、ただ一度春樹さんに、苛烈な思い出を語る場面がある。
そこまで読み進んだ私は、エピソード自体のインパクトに心囚われてしまいそうになった。
その時、見開きに広がる挿絵に胸をつかれ、私は言葉を失った。
寂しいけれど、不思議と心安らぐ風景が本の中に描かれていた。
荒涼とした土地。
鳥たちが舞う、悲しいほど明るい空。
行き場を失った思いが広大な世界に解き放たれると、物語は私を再び迎え入れてくれた。
読み手に、ほんとうに伝えたいことがあって、挿絵がその本質へと確実に導く。なんと素晴らしい作品。
お父さんの人生の歩みが何かひとつでも違っていたら、春樹さんは生まれなかった。
お父さんの人生を知れば知るほどそう感じ、春樹さんは自分自身が透明になるように思う。
手のひらが透けて見えるようだと、春樹さんは書いている。
私は、その逆だ。
この物語を読み進めると、お父さん、そして春樹さんの存在がはっきりと像を結び、色濃くなる。
いつだって、どんなことだって、そうなのだ。
私は、一人では生を実感できない。
私の透けた手のひらは、縁のあるひとを知り、自分を知ることで段々と色濃くなっていく。
これは一見、春樹さんの語る感覚と真逆のように思えるが、実は同じことだ。
私たちは、偶然が生んだ事実を唯一無二の事実としてとらえているに過ぎない、と春樹さんは書く。
事実は一つであり、一つではない。
謎めいたあの日の記憶も。
生まれて初めて読んだ村上春樹さんの作品が、「猫を棄てる」であることが良かったのかどうか分からない。
だがこれも、偶然こうなったという事実に過ぎない。
平凡な、私の事実だ。
早花まこ https://note.com/maco_sahana
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