4月23日に発売になった、村上春樹さんが初めて自らのルーツを綴ったノンフィクション『猫を棄てる 父親について語るとき』。
「文藝春秋digital」で開催中の「#猫を棄てる感想文」のハッシュタグをつけていただいた投稿のなかから注目の感想文を、ご紹介しています。
第八回は、娘さんの出産直後にタイでこの本を読み、親子の縁について考えたという「imamibookus」さんの感想文です。
海を越えてやって来た本
楽しみにしていた村上春樹さんの久しぶりの新刊は、日本から海を越えてやってきた。
私はいまタイに住んでいる。
そして、この本を読む直前に、私は出産した。
生後一ヶ月の娘を横に、この本を手にしている。親子の縁とはいったいなんだろう。
個人的な人生の大きなイベントをこの本とともに少し考えてみようと思った。
偶然の積み重ねでかたち作られた人間
私は今年三十になった。
大学時代から村上春樹さんの長編に親しんできた私にとって、春樹さんは少し先を行く先輩みたいな存在だと勝手に思っている。実際は三回り半も違うのだけれど。
春樹さんの生みだす物語に身をひとつで入っていって、自分の深いところに到達するような体験を何度もしてきたからだ。
その身近な先輩が、父のことを調査し、その事実と自分の記憶を頼りに自身のルーツを見つめ直す過程は、他人事とは思えなかった。
〈もし父が兵役解除されずフィリピン、あるいはビルマの戦線に送られていたら……もし音楽教師をしていた母の婚約者がどこかで戦死を遂げなかったら……と考えていくととても不思議な気持ちになってくる。もしそうなっていれば、僕という人間はこの地上には存在しなかったわけなのだから。そしてその結果、当然ながら僕というこの意識は存在せず、従って僕の書いた本だってこの世界には存在しないことになる。そう考えると、僕が小説家としてここに生きているという営み自体が、実体を欠いたただの儚い幻想のように思えてくる。〉(太字は筆者)
『猫を棄てる 父親について語るとき』(p.90-91)
なにかがどこかが一ミリでもずれていたら自分という人間が存在しないというのは、いまの自分という結果からみれば、たられば論にすぎないかもしれないが、事実、そうなのである。
誰もが、そうなのである。
だから他人事ではない。
そう、私のこと、この子のことでもあるのだ。
〈我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか。〉
『猫を棄てる』(p.96)
春樹さんは、我々は偶然のひとつひとつの積み重ねによってできているのに、それらの偶然を必然とみなして生きるのではないかと問うている。
必然であるとみなしたほうが我々は安心できる。
そうしないと、自分の存在のよりどころがなくなってしまう。
しかし、必然を遡ろうと思えば、何年も何十年も何百年も、地球の起源にまで遡れてしまうのだから、きっと我々は偶然によって生まれた存在なんだろう。
出産――この子を守ると決めた日
四月七日、私は子どもを産んだ。
自分の子宮から出てきた我が子を見て、自分のなかに十ヶ月も人間がいたのだと、不思議な気持ちになった。
自分の血肉をわけた子である。
そして思った。この子はなにがあっても私が守る。
ただただ、そう思って、我が子を抱きしめた。
この子が生まれてきたのが偶然だとは、到底、思わなかった。
血縁の宿命
私は典型的な核家族の家庭で育った。
サラリーマンの父と、専業主婦の母、三つ下の弟。都心からそれほど遠くない、マンションが乱立する住宅街の一角で、私は育った。
絵に描いたような、普通でありふれた家庭である。
しかし、だんだんと、その普通という悪が私を浸食し、自分が普通で平凡であることに不満をもつようになった。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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