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私事で大変恐縮だが、僕は武蔵野市の平均的な家庭に生まれ、特段仲が良いわけでも、悪いわけでもない、典型的な親子関係の中で育てられてきた。そんな僕には『猫を棄てる』のような、「他界した父の人生を回顧し、それに対する感謝と後悔を述べる」といった作品に触れるたびに呼び起こされる感情がある。
それは、「父が生きてて、ごめんなさい」である。いや、それだと正確じゃない。正しくは、「父がまだ生きているのに、その時間を大切にしておらず、ごめんなさい」だ。
この気持ちは、文芸や映画といった作品に触れたときだけのものではない。飲みの場や結婚式の二次会などで、家族の話題になることがある。その際、「あ、父(母)はもう亡くなっているんだけど…」といった語り出しの者に出くわす度、わずかながらの「申し訳無さ」から、心の中の僕は深めの会釈をする。「父が生きてて、ごめんなさい」と。
もちろん、心の奥でそう感じていることを、僕はおくびにも出さない。仮に僕が謝ったとしても、相手も反応に困ってしまうだけだということは分かっている。でも、彼らもどこかで「父母が健在であるにも関わらず、親孝行しない者への怒り」をわずかに抱いているのではないか、と思ってしまう。だって僕が逆の立場だったら、間違いなくそう感じるから。
結局、僕が幼いのである。父も母も、大きな病気一つせず健在な現状を、なぜもっと大切にできないのか。それは、親孝行を強く意識することは、親の死を意識することに他ならないからなのだ。自分の死と同じように、誰にでも平等に訪れる「親の死」という瞬間について、僕は未だに直視できないでいる。そして、その現状を変える努力をするわけでもなく、ただ「ごめんなさい」と思うばかりなのである。
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『猫を棄てる』の村上春樹は、非常に冷静な口調で、捉えようによっては何か特別な意図を感じるほど淡々と、父との思い出について書き綴っていた。僕はその淡白さの陰に、得も言われぬ悲哀を感じずにはいられなかった。その密かな悲しみは、わずかながら、親の死の瞬間と向き合うきっかけを僕に与えてくれたように思う。春樹氏が、父と猫を棄てに行った河辺は、僕にとっては吉祥寺のビリヤード場や、ゲームソフトの販売店だった。しかし、春樹氏と決定的に違う点は、僕にはまだ父に出来ることが沢山あるということだ。自身の幼さ故に「ごめんなさい」と感じるのは、そろそろ終わりにしよう、と思った。
うえはらけいた https://note.com/keitauehara
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