別冊文藝春秋

『アキレウスの背中』長浦京――立ち読み

文: 長浦 京

電子版33号

「別冊文藝春秋 電子版33号」(文藝春秋 編)

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「しもみながれ? したつる?」

 スーツ姿の警視正が、タブレットの名簿にある下水流悠宇の名を見ている。

「いや、おりだな」

 警視正が視線を上げた。

「はい。おりづるゆうと申します」

 悠宇は頷いた。

「よくご存じですね」

「大学時代の友人が鹿児島出身でね。そいつの実家に遊びに行ったとき、店の看板や通り沿いの表札にこの名を見かけたんですよ。もう二十年以上前のことだけれど。君の親御さんもそちらの出身ですか?」

「祖父が鹿児島県出水郡の出身です」

「そうですか。警視庁捜査三課七係、下水流主任。確認しました。きれいな響きの、いい名字ですね」

 警視正が笑う。

「ありがとうございます」

 悠宇も大きな目を細め、微笑みを浮かべると小さく頭を下げた。

「私は――」

 悠宇の隣の四十過ぎの男も口を開く。

「わかるよ、間明係長」

 警視正はあっさりいうと、タブレットに映っていた名簿を閉じた。

「定刻通り来ていただいたのに申し訳ないが、担当者が準備に少し手間取っているようでね、そこのミーティングルームで待っていてもらえますか」

 悠宇と男は頷きドアを開いた。

 警視正が去ってゆく。部屋は狭く、小さな窓がひとつ。折りたたみ式の長テーブルと椅子が並び、さながら取調室のようでもあった。

 警察官のふたりは殺風景なこんな場所には慣れている。

 千代田区霞が関二丁目、中央合同庁舎第2号館内。警視庁本庁の裏手にある警察庁庁舎。

「本庁も薄汚れていますけど、ここもかなりのものですね」

 ベージュのコートを脱ぎ、悠宇は低い天井を見上げた。

 節電のため廊下は薄暗く、この部屋もLED電球とは思えないほど照明がぼんやりしている。エアコンの送風口から生ぬるい風は出ているものの、薄ら寒い。

「ここはじめてじゃないだろ?」

 間明も年季の入ったトレンチコートを脱ぎながらいった。

「私? 三回目くらいですかね? 地検には呼ばれますけど、こっちは特に用はないですから。係長は最近よく課長と一緒に呼び出されてますよね」

「いろいろプレッシャーかけられることが多くてさ。でも、驚いたよ」

「何がですか?」

「おまえも愛想笑いができるんだな」

 間明がさっきの警視正とのやり取りを皮肉る。

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版33号(2020年9月号)文藝春秋・編

発売日:2020年08月20日


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