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『アキレウスの背中』長浦京――立ち読み

『アキレウスの背中』長浦京――立ち読み

長浦 京

電子版33号

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

「別冊文藝春秋 電子版33号」(文藝春秋 編)

 成立の直接の契機となったのは、当時二十三歳の女性が起こした事件だった。

 精神的に不安定な状態にあった彼女は、未成年だった十九歳当時から、ネット内で顔の見えない相手に何度も人生相談を求め、その中で知り合った複数の男女から、不適切かつ、違法な「アドバイス」を受けていた。結果、マインドコントロールされた状態になり、売春や窃盗などをくり返し、得た金銭は、「相談料」「カウンセリング代」「お布施」などと称してアドバイスをした男女たちに支払われていた。ちなみにその男女たちに横のつながりはまったくなく、もちろん医師やカウンセラーの資格も有していない。

 彼女は四年もの間、根拠のないアドバイスを受け続け、さらに深刻な精神状態に陥り、面白半分で指示された「人を二十人以上殺せば楽になれる」という言葉を信じてしまう。

 そして池袋の路上で五歳の少年を含む、男女十一人を殺傷した。

 実行までの間にも犯罪の危険な兆候はネット内で散見され、第三者による通報まであったにもかかわらず、警察は担当を押しつけ合い、本格的な捜査をしなかった。責任をたらい回しにしたことや、未然に防げたはずの事件を防止する努力をしなかったことは、当然マスコミにも知られ、連日、テレビ、ネットで糾弾された。国会でも取り上げられ、当時の国家公安委員の責任放棄とも取れる失言も加わり、衆院解散の遠因ともなる大問題となった。

 そうした経緯から生まれたMITの開始から一年半。

 これまでふたつの大きな事件をMIT捜査チームが解決したと警察庁、警視庁は発表しているが、実際どれだけ機能し、効果があったのか、下水流は知らない。

 手短にいうと懐疑的だった。

 よく知らない相手といきなりチームを組まされるのは、それだけでストレスになる。

 警視庁内からMITに呼ばれた捜査一課の知り合いに聞いたところ、とにかく大変だったらしい。捜査内容は秘匿事項なので同じ警察官でも教えてはもらえなかったが、年功序列や古い捜査手法に固執する四十代以上と、携帯端末や監視カメラを駆使した手法に慣れ親しんだ三十代以下のメンバーの間には埋めがたい溝があり、調和を取るのに腐心したそうだ。

 悠宇や間明係長を含む本庁勤務のほとんどが感じていることだが、警察、特に警視庁は今、過渡期にある。

 長引く不況から、キャリアとなれる国家公務員採用総合職試験(旧国家I種試験)ではなく、地方公務員の中でも給与の高い警察官の採用試験に、いわゆる一流大学の学生も殺到。以前は六倍程度だった倍率が、今では平均十三倍以上になっている。

 一方、都内で生活する外国人の増加から、外国語も警察官にとって必須能力となりつつある。捜査三課所属で窃盗犯罪捜査が主な仕事である悠宇自身も、英語と日常会話程度の中国語を話せる。加えてスペイン語も習いはじめている。キャリアアップのためというより、話せなければ聞き込みなどの捜査が成り立たなくなっているのだ。

 間明係長のような足で捜査をし、経験を積み上げてきた四十代以上の警察官たちにとっては特に厳しい状況で、外国人相手の聞き込みでは培ってきた話術を言葉の壁で生かせず、今になって外国語を身につけることに四苦八苦している。

 以前は目立つ功績や、忠誠心という名の機嫌取りを重ねないと、下りにくかった上司からの昇任試験受験許可も、「優秀な人材の積極発掘」という警察庁の指示のおかげで、ずっと楽に得られるようになった。それは悠宇のように二十代や三十代前半の警部補、警部を増やし、若手のやる気を奮い立たせている一方で、年上ながら階級が下の部下たちとの間に、捜査に支障をきたすような意思の不一致や疎通不足も生み出している。

 東京は以前とは違う街に変わっているのに、警察の組織も法もそれにまったく対応できていなかった。

 ノックの音が響く。

 悠宇と間明はすぐに椅子から立ち上がった。

 

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版33号(2020年9月号)
文藝春秋・編

発売日:2020年08月20日

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