コラム・エッセイ

<エッセイ>くどうれいん「御毛」

くどう れいん

別冊文藝春秋 電子版33号

「別冊文藝春秋 電子版33号」(文藝春秋 編)

[Iの告白]

 コロナの影響で忙しすぎた仕事量がまっとうなくらいになり、時間ができたのでおうち時間で太った身体を引き締めようと筋トレを始めた。すると唐突に美容への興味がわいてきた。今まで夜遅くに帰宅しご飯を食べ、化粧も落とさずに力尽きてきたわたしにとって、美容に気を遣うことはやらなければと思いつつできていないことだった。退勤後に時間があるとこれだけのこころの余裕が生まれるものなのか。善は急げと脇の脱毛の体験コースを予約した。いかにもきれいなお姉さんらしき声は電話の向こうで日程を確認し、妊娠の可能性や体調不良についての問診をした。最後に彼女は言った。「いらっしゃる直前にオケを自己処理しないようにしてください」オケ? 頭の中でかちゃかちゃと変換して気が付く。まさかオケって「御毛」か。そうしたらもう、自分の無駄だと思っているこの毛の一本一本に「御毛」と尊敬をしてくださることが面白おかしくて仕方がなく、わたしはその脱毛サロンと契約していまも通っている。

 脱毛をしながら、これからはノースリーブを気兼ねなく着られると思うとすがすがしい気持ちになる反面、「いったい誰のための」出費で手間なのかと思うとむかついてくる。所謂「むだ毛」が下品で恥ずかしいもの、という認識のもとに、多くの女性が脱毛に苦心すること自体を、いっせーの! でやめさせてほしい。それか、訝るなら税金で男女問わず全員のわき毛を抜く制度にしてほしい。自分が脱毛をすることで、脱毛をしていない誰かへのプレッシャーに加担しているような気持ちになるのだ。そもそも「御毛」なのであれば我々の身体にあるすべての毛は抜かなくてよいのでは。どうして自分の毛が生えてくる場所によって「無駄」かどうか決まって、だれかにそれをジャッジされるのを恐れなければいけないのだろう。わたくしの「御毛」をあれこれジャッジしようとするのは誰だ。この毛は毒針でも何でもないのに。

 性別も年齢も関係なく、毛があるとか無いとかで他人に対してどうこう言うのがきらいだ。はげている男性芸人がいじられているテレビ番組も大の苦手で、いったい何が面白いのかわからない。「ハゲとるおっさんやないかい」というツッコミは「わき毛生えとる女やないかい」と同じなはずなのに、前者のような「おもしろがり」はいまでも割と生き残ってしまっている。つるつるでもいいし、ぼーぼーでもいいし、かつらでもいい。あっ。わたしが他人の毛のことを許可するわけじゃないのだから「でもいい」は傲慢だ。「だったらなんだよ」である。つるつる、ぼーぼー、かつら。だったらなんだよ。多様性のある社会を作るためには「許す」ことではなく、一斉に「だったらなんだよ」とガンを飛ばして好きにやるのがいい気がする。みんな脇を隠したり頭を隠したりして、どこから飛び出てくるかわからない人を「不快にさせないように」気を遣いながら、どうしてむだ毛やハゲがみっともないと思うのかについては、深く考えようとしない。

 両腕を上げ、永久脱毛のために微量の電流を身体に流されながら考える。あーあ、御毛なんかあるから敬ったり敬わなかったりでやきもきするのだ。人間全員生まれて一生一本も毛のないつるつるならよかったのに。『まんが日本昔ばなし』のエンディングテーマ「にんげんっていいな」に出てくる、つんつるてんのふたりの人間を思う。ひさびさに検索すると全く毛のない人間たちは「いいな いいな」と言いながら全く同じ笑顔でこちらを向いている。はっ。もしかして、ふたりとも全身脱毛なのだろうか。


くどう・れいん 一九九四年生まれ。岩手県盛岡市出身・在住。会社員。樹氷同人、コスモス短歌会所属。著書に『わたしを空腹にしないほうがいい』『うたうおばけ』、共著に『ショートショートの宝箱I・II』。「群像」にて「日日是目分量」連載中。

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版33号(2020年9月号)文藝春秋・編

発売日:2020年08月20日


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