この文章を書く少し前まで、僕は『アーヤと魔女』というアニメーション映画を作っていました。原作は、イギリスの作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズの児童文学です。ダイアナさんの多くの作品がそうであるように、登場人物は皆、一癖も二癖もある人たちばかり。主人公アーヤは、十歳の女の子です。孤児院育ちのアーヤはある日、性格の悪そうな魔女のおばさんと、何を考えているのか分からないおじさんの二人が暮らす、13番地の家にもらわれます。そして、子ども一人で二人の難物を相手に暮らしていかなければいけなくなるのです。まともに立ち向かおうものならこれは大変。魔女は「言うことを聞かなければ、ミミズを食わせる」と事あるごとに言ってくる。自分の身を守りつつ、居心地の良い自分の城にしていくためには、馬鹿正直にぶつかるのではなく、知恵を使わなければいけない。すこし悪い言い方をすると、大人たちをたらしこまなければいけません。それには、賢さと度胸、そして何より愛嬌が必要なのです。アーヤは持っている術を最大限に使い、自分の望む方向に物事を運ぼうとしていくのです。
僕も、一途であるというのはある種の理想形だと思っています。しかし今の時代、「こうあるべき」と一途に真面目にやっていると、心身がやられてしまう。自分を壊してまで一途である必要はないのでは? とも思うのです。それに、一途も度を過ぎれば、多様性を拒絶することにつながる危険性をはらんでいます。アーヤは決して一途な女の子ではありません。結果自分の方に分が良くなるように仕向ける狡い(笑)ところもあります。しかし、そこには憎めない可愛らしさと、抜け目のない柔軟な立ち回りとがあって、「私は私、あなたはあなた。違いがあるけど、うまくやれば二人ともハッピーじゃない?」となるのです。そして僕は、それでOKだと思うのです。
誠実さや勤勉さを貫くのでもなく、正義や勇気を振りかざすのでもなく、アーヤのように自分の頭で考え、人をたらしこんで世の中を渡っていく逞しさこそ、今を生きる子どもたちに必要なのではないか? アーヤを描くことは、子どもが少なく大人が多い逆ピラミッド型の日本、そして分断と対立が露わになっている困難な世界で、子どもたちへのエールになるのではないか? そんなことを考えながら映画を作っていました。