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百年の黙示

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文:辻 仁成 (作家)

『マスク スペイン風邪をめぐる小説集』(菊池 寛)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『マスク スペイン風邪をめぐる小説集』(菊池 寛)

 マクロン大統領がテレビ演説を通してロックダウンを宣言してもまだマスクへの懐疑というのか、マスクへの信頼も信用も行き渡ることはなかった。エドアール・フィリップ首相もオリヴィエ・ヴェラン保健相も当初は「非感染者がマスクをつける必要はない」と明言していた。この時の失敗があとで感染拡大を許す最大の原因になるのだけど、実際のところ、マスクを推奨したくても、もともと必要としなかった国なので、そもそも在庫が乏しかった。それなのに、中国からの観光客を入国させていた。付けないフランス人と付ける中国人との対比が在仏日本人の私に、何か心底恐ろしいことが起こるような予感を植え付けて仕方なかった。

 かくして、あれよあれよという間に、フランスのみならず欧州各国で感染爆発が起こり、人々は我先にマスクを求めることになる。
 

 菊池寛のこの「マスク」は短編小説ながら、時代を予見する非常に興味深い作品の一つであり、アルベール・カミュが1947年に出版した「ペスト」との比較は難しいけれど、むしろ日本人には「ペスト」以上に思い当たることが満載であった。たとえば、以下の一節はまさに、今現在、私たちが神経質にやっていることの描写かと思わされる。

「自分は、極力外出しないようにした。妻も女中も、成るべく外出させないようにした。そして朝夕には過酸化水素水で、含漱をした。止むを得ない用事で、外出するときには、ガーゼを沢山詰めたマスクを掛けた。そして、出る時と帰った時に、叮嚀に含漱をした」

 止むを得ない用事というのは、最近頻繁に使われるようになった「不要不急」でない用事のことであろう。過酸化水素水というのが何か分からないけれど、うがい薬に似たような効果があったのだろうか? むしろ、過酸化水素水という響きにスペイン風邪を撃退してみせるぞ、という当時の科学的気概を垣間見ることが出来る。ガーゼを沢山詰めたマスク、という表現が実に人々のこの未知のウイルスへの畏怖を描いていて、さらには、当時の科学的レベルもよくわかり、同時に、その必死さは、ぼくらが性能のいいマスクを探し求めてやまない現代の労苦とも符合する。

「病気を怖れないで、伝染の危険を冒すなどと云うことは、それは野蛮人の勇気だよ。病気を怖れて伝染の危険を絶対に避けると云う方が、文明人としての勇気だよ。誰も、 もうマスクを掛けて居ないときに、マスクを掛けて居るのは変なものだよ。が、それは臆病でなくして、文明人としての勇気だと思うよ」

 この一節に出会った時、思わず、はぁ、菊池先生、と唸らずにはおれなかった。冒頭の「病気を怖れないで、伝染の危険を冒すなどと云うことは、それは野蛮人の勇気だよ」はトランプ大統領がマスクをせずホワイトハウス中を歩き回っていたことへの皮肉か、または予言、と思ったほど。「病気を怖れて伝染の危険を絶対に避けると云う方が、文明人としての勇気だよ」に至ってはフランス人がパンデミック以前にマスクを離さない日本人を笑いのネタにしていたことを思い出させてくれた。菊池寛は面白い。彼は小説家というよりも経営の能力もまた高い人だったと思うが、優秀な経営者というのは予言者であり、先見のある人なのである。

文春文庫
マスク
スペイン風邪をめぐる小説集
菊池寛

定価:682円(税込)発売日:2020年12月08日

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