西暦二〇二〇年、人類は、新型ウイルス感染症の危機に直面しました。我々は、生きていくために、また、社会を維持するために、どのような知恵を働かせるか、ウイルスや感染症について、これまで以上に、考えなくてはならなくなりました。
ウイルスは目に見えません。電子顕微鏡を使わない限り、直接には、目に見えないものに対処する必要に迫られているわけです。見えない、滅多にやってこなかったものに対峙するには、どうしても、知識が必要です。ウイルスや感染症が、どのようなものであるか。過去に、どのように人類とかかわってきたか。ウイルス学や免疫学、感染症史の書物で読むなどして、理解していなければ、健康にかかわり、生活に支障がでる時代に入りました。
歴史学というと、これまでは、政治史、経済史が中心とされてきました。学校の歴史教育で暗記させられる名前の多くは、王侯貴族や政治家や武将や軍人で、あとは宗教家や作家などの文化人や科学者のものです。要するに、教科書で教えられる歴史の主人公は、権力をもったり、人類の思想に影響を与えたりした「著名な人物」です。ウイルスや病気、患者になって死んだだけの「無名の人物」は全く登場しません。
みなさんのように、自分で書店に足を運んで、身銭を切って本を買い、大人になってからも、歴史を学んでおこうとする方は、この社会にとって貴重です。
なぜなら、著名な人物だけが出てくる教科書で教育され、その後、歴史を学ぶ機会のない方々がほとんどなので、今回のように、新型ウイルスのパンデミックが起こっても、思い浮かぶのは、せいぜい世界史で習った中世のペストの話ぐらいです。百年前に、世界はスペイン風邪(インフルエンザ)のパンデミックに襲われていますが、教科書の記述は、あっても薄いもので、ほとんど説明がなされていません。
こういう知識のままでは、事態に適切に対処できないのは明らかです。我々は、ほかの動物と違って、何世代も前の遠い昔にさかのぼって、過去の事例をレファレンス(参照)することができます。人々が、疫病(感染症の流行)のなかをどう生きたのか。どうやって命を守ってきたのか。それを検証すれば、より効果的な対処法を考えるヒントになるかもしれません。
ですから、現今は、歴史教科書には出てこない病気やウイルスや患者が主人公になった「歴史の書物」が書かれ、読まれることも、必要であろうと思います。人間は誰しも病気になります。当たり前ですが、死なない人はいません。であれば、健康や不健康の視点からみた歴史は、誰にとっても他人事ではなく、大切になります。
この本は「歴史学が世の中に何ができるか。歴史は現代の人々の役に立つのか」ということを考えるなかで、生まれたものです。なかでも、個々の人間がどのように病気になり、どういう場合に助かり、どういう場合に命を落としたか。そういう「患者史」の重要さを語るものです。ですから、天皇も総理大臣も文豪も、ただの患者として登場し、分析されます。疫病、今日でいう感染症は「人から人にうつる」ことからして、自動的に、人間集団の問題、社会学の問題になります。医学だけでは解答がでない問題を引き起こします。