文藝春秋社から菊池寛著のオリジナル短編小説集『マスク』の解説依頼を受けた。タイトルになっている短編小説「マスク」は一世紀ほど前、スペイン風邪が大流行した当時、菊池寛自身の体験をもとに綴られた小説である。スペイン風邪は第一次世界大戦の終わりごろから流行しはじめたインフルエンザ・パンデミックで、当時、五千万人から一億人ほどの命を奪ったとも言われる。現在、大流行中の新型コロナウイルスとよく比較されるが、百年も前のことだけに、スペイン風邪によるパンデミックを経験しそれを現代に語れる者はもはやいない。けれども、私たちは菊池寛の「マスク」から当時の日本の状況を読み取ることが出来る。
おそらく、この小説に登場する、<見かけは恰幅がよくて肥っているがために健康だと思われているが、実は心臓や肺が弱い主人公>は菊池寛その人であろう。病院で診察を受けるが、そこの医者は、主人公を脅かすことしか口にしない。患者のことなど考えずずけずけとものをいう医者の言葉に主人公は傷つき、不安を覚え、怯える毎日……。新聞に掲載される日々の死者数の増減に一喜一憂し、外出する時はマスクが手放せなくなる、という筋書きだが、驚くべきことに、それはまさに現在そのものではないか。
解説など引き受けたことがない私が、実はこの仕事を引き受けるかを悩みながら、冒頭の短編「マスク」に目を落とした途端、これはフランスでロックダウンを経験した自分が解説をやらないわけにはいかない、と思うようになった。
私が暮らすフランスでは3月17日(2020年)から新型コロナウイルスの感染拡大により、ロックダウンに突入。1月の段階ではまだ、この感染症は遠い中国で起きている対岸の火事に過ぎなかった。連日、テレビでも取り上げられてはいたが、私も含め、誰一人このようなその後の世界が待っているなどとは想像だにしていなかった。ロックダウンに入る以前、フランス人がマスクに対して持っていたイメージとは「重症者が身を守るために付けるもの」でしかなかった。私が排気ガスの酷い日などにマスクをつけて買い物などに行こうものなら、怪訝な目で見られ、あからさまに道を譲られたりした。日本人がマスクを日ごろ身に着ける習慣があることを、もちろん彼らは知っていたが、衛生観念の異なるフランス人は中国で感染症が流行り始めていたのに、マスクを付けることはなかった。中国からの観光客でごった返すシャンゼリゼ大通りであろうと、エッフェル塔周辺であろうと……。自由を愛するフランス人にとってマスクは世界を遮断する不自由の象徴であり、マスクをするということは個人の隔離に等しかった。
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