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夢を生きる人、夢を与える人、45年後の今も終わらない物語

夢を生きる人、夢を与える人、45年後の今も終わらない物語

文:北野 新太 (報知新聞記者)

『敗れざる者たち』(沢木 耕太郎)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #ノンフィクション

『敗れざる者たち』(沢木 耕太郎)

I

 地下のバーに流れる音楽は、J・D・サウザーの「ユア・オンリー・ロンリー」からビリー・ジョエルの「オネスティ」に変わった。

 カウンターの隣に座る沢木耕太郎の声は、騒がしい酒場の中で穏やかに聞こえた。

「僕はいつも相手と対等で在りたいと思い続けてきた。もちろん相手のことを好きになること。あとは……そうだね、相手に対して誠実であることかもしれない」

 誠実という言葉が背後に響く歌の名前に重ねたものなのか、偶然の符合によるものなのかを、私は推(お)し量(はか)ることができなかった。

 

 平成二十二年十二月二日、渋谷での夜。二十三時を回っていた。

 彼は大切なことをいくつも教えてくれた。子供に読み聞かせた絵本のこと。高倉健に宛てた脚本のこと。ロバート・キャパが残した謎のこと。私が少し前にした羽生(はぶ)善治へのインタビューで『深夜特急』の話になったと伝えると、彼は静かに笑った。

 ふと井上陽水の話題になった。

「一昨日会ったんだ。お互い歳を取ったね、なんて随分と長く懐かしい話をしたよ」

 ふたりの出会いが描かれた作品を思い出した私は「初対面の井上さんに向かって、なぜ、興味がない、なんて言えたんですか?」と聞いた。

「若かったし、陽水なら面白がってくれるんじゃないかという僕なりの計算もあった」

 私は前年のライヴで陽水の「積み荷のない船」を聴いていた。ドラマ「深夜特急」の主題歌はアンコールで語るように歌われた。

「僕との約束だったんだ。一度、コンサートで歌ってくれないかって。聴いたことがなかったんだ。僕が行った時も歌ってくれた。あの歌がすごく好きなんだ」

 ステージでの陽水のヴォーカルを追想する。

 

 積み荷もなく行くあの船は 海に沈む途中 港に住む人々に 深い夜を想わせて

 

 深い夜、沢木耕太郎との約束──。少し酔いの回った意識の底で、私は五年前のことを思い出していた。

 

 十七年夏、沢木とカシアス内藤へのそれぞれのインタビューで同じ質問をした。

「真っ白い灰に燃え尽きる『いつか』という刻(とき)を、あれから迎えることはできたのでしょうか」

 二十五歳の沢木が「クレイになれなかった男」の終幕に書いた文章は、二十五歳になった私の心に再び反響していた。

 

 人間には、燃えつきる人間と、そうでない人間と、いつか燃えつきたいと望みつづける人間の、三つのタイプがあるのだ、と。

 望みつづけ、望みつづけ、しかし「いつか」はやってこない。内藤にも、あいつにも、あいつにも、そしてこの俺にも……。

 

 十四歳の時に初めて読んでからずっと、何かを語り掛けてくる言葉だった。「あいつ」のリフレインの果てに俺もいるんだ、と十代の青さで考えていた。望み続け、望み続けても「いつか」のやってこない者として。

 

 遠い月日が経過した後の答えを聞きたかった。

「E&Jカシアス・ボクシングジム」を開いた直後だった内藤は真新しいリングの中央に座ったまま言った。

「これが俺の目指したいつかだった。あとは自分の手で世界王者をつくること。それが俺の新しいいつか」

 代表作になる『凍』を発表したばかりの沢木は少し考えた後で言った。

「うん……宿題にしとくね。でも、いずれは提出することを君と僕との約束にしよう」

 

 音楽はスティーブン・ビショップ、ボズ・スキャッグスと移っていく。

 あの時の約束を果たしてもらうには、うってつけの夜だと思った。

 日付が変わる。時間がない。席を立つ前に、五年前の問いをもう一度投げ掛けた。

 沢木は考えていた。不思議なくらい静かに、別れる前の時間は過ぎていった。

 彼はI・W・ハーパーのストレートを折り目正しい手つきで口元へと運び、おそらくは歩んだ日々について思いを巡らせていた。

「……ふたりで目指したいつかには、ついに辿り着かなかった。そして僕自身も……いつかと思える刻を迎えることはできなかったのかもしれない」

 返す言葉などどこにもなかった。

 酔客の喧騒も、懐かしい音楽ももう聞こえなかった。

 暖色の光がカウンターを照らしていた。

 私は何も言えず、ただ彼の横顔を見つめた。

文春文庫
敗れざる者たち
沢木耕太郎

定価:770円(税込)発売日:2021年02月09日

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