一昔前の教科書では、1648年に締結されたウェストファリア条約が近代の画期とされていた。三十年戦争の終結と共に世俗化が進み、キリスト教共同体としての欧州が、領域的な主権国家群として再編されたというのだ。しかし実際には「神の時代」が17世紀で終焉を迎えたとは到底言えず、現代においても「市民宗教」を含め、社会統合において信仰が果たす役割は少なくない。
あるコミュニティを束ねようとする時、より上位の機関の権威を借りるというのは、支配の原理として理に適っている。古代日本は進んで中国の冊封体制に組み込まれたし、今でも「アメリカ政府の意向」や「海外メディアでの報じられ方」を嬉々として話す人は多い。
人間界の上位機関の最たるものが「神」の世界である。人間にとって神は、生きる理由にもなるし、怒れる神は人間を殺戮することもある。有史以来、人間は神を畏れ、敬ってきた。その信仰の歴史は、人類史にも重なる。
中森明夫さんの新作『キャッシー』は、図らずも神に近付いてしまった少女の物語だ。もっとも、神話をモチーフにしたファンタジーなどではなく、現代日本(のパラレルワールド)を舞台にしたアイドル小説である。
主人公はキャッシーと呼ばれる少女。ありふれた地方都市の、ありふれた家庭で生まれた、いじめられっ子。クラスメイトに忌み嫌われ、壮絶な暴力に遭い、自殺も試みる。そんな彼女はアイドルに救われ、自らもアイドルを目指す。そしてついには国民的人気グループ「YYG24」の一員にまでなってしまう。
「YYG24」とは、アイドル戦国時代の隙を突くようにして、2011年に誕生したグループだ。本拠地はオタクカルチャーの聖地である秋葉原ではなく、日本共産党と代々木ゼミナールと代々木アニメーション学院のある代々木。
作中で活躍する評論家「中森明彦」の言葉を借りれば、「日本共産党にとっての革命、予備校にとっての大学、アニメにとっての肉体」というような、「未だ叶えられぬ希望」の詰まった街ということになる。
その「YYG24」の研修生としてキャリアを始めたキャッシーは、一歩ずつアイドルの階段を上り始める―――。
こんな風にあらすじを紹介すると、いじめられっ子がアイドルとして成功する「よくある小説」と思われるかも知れない。実際、キャッシーは指原莉乃さんをモデルにしているような部分があり、「左遷」や「総選挙」にまつわるエピソードも出てくる。意外な形で「前田敦子」や「秋元康」といった名前も登場する。
しかし実際のさっしーと違い、キャッシーには特殊能力がある。何と超能力が使えるのだ。不思議な「ちから」で、いじめっ子を倒すことも、仲間を助けることも、人々を熱狂させることもできる。
たとえばキャッシーが初めて臨むオーディション。頭の中が真っ白になり、自己紹介も小さな声でつぶやくのがやっと。歌も声が完全に裏返ってしまい、審査員は浮かない顔をしている。そこでキャッシーは「ちから」を発動させる。頭の中から「ちから」を審査員に向かって機関銃のように放つ。彼らは頭を揺らし、髪を乱し、白目を剥いたかと思ったら、うっとりとした目でキャッシーを見つめるようになっていた。
キャッシーは「ちから」に助けられながらトップアイドルを目指すのだが、不思議なことに荒唐無稽な物語には思えない。なぜならば、実際のアイドルの活躍もまた、超能力を使っているようにしか見えない瞬間があるからだ。作中の言葉を借りれば、彼女たちは「まなざし一つで、ファンの心を強く動かす」。
特に日本のアイドルには、歌もダンスも下手という人が少なくない。韓国のように何年も訓練を積んだ上でデビューするのではなく、わずかな練習期間でいきなりデビューするアイドルも多い。それにもかかわらず、なぜ人々は彼女や彼らに熱狂するのか。
一体、アイドルとは何なのだろうか。これまでの中森さんの著作でも論じられてきたテーマだが、本作ではアイドルを宗教史の中に位置づけようとする。つまり「アイドルとは何か」という問いを「なぜ人々はアイドルを求めるのか」と読み替え、その熱狂の秘密に迫る物語でもあるのだ。「左遷」からのカムバックは、さながらキリストの復活である。
『キャッシー』を読む限り、「神の時代」が終わることはないのだろう。国家統合に宗教が用いられなくなっても、何らかの形で「神」は要請され続ける。そこで生まれた新しい「神」が政治権力と結びつくこともあるのだろう。ちなみに実際の指原莉乃さんは世俗王としての地位を固めつつあり、いつか都知事や総理大臣になっていても驚かない。
果たして人間は神になることはできるのか? 恐らく、ある意味において、また期間限定であるならば、答えはイエスなのだろう。
人間は古くから宗教感情を持っていたと考えられるが、「神」という存在は驚くほど「人間」と共に姿形を変えてきた(レザー・アスラン『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』)。民主的な政治制度を採用していた古代ギリシャのような社会では多神教が流行するし、絶対的な権力者の独裁政権が台頭する時代には、一神教的な価値観が広がりやすいという。
どんなカリスマ的な政治リーダーもすぐにぼろが見つかってしまう現代社会で、「神」を待望する声は止まないだろうが、普遍的な「神」が降臨する可能性は非常に低い。
それにもかかわらず図らずも「神」に近付いてしまう人間がいる。アイドルやカリスマやスターと呼ばれる人々がいる。その末路はどうなるのか。『キャッシー』が提示する結末は、「超能力」という設定同様、荒唐無稽に見えながら、まさに「神」の本質を突いている。無誤無謬でなくともそれを信じたい人々がいる限り「神」は存在し続ける。
いつかの未来、この文明が滅んだ後で、神話としてアイドルソングが歌い継がれている日が来るかも知れない。本書を読了した後で、再び表紙を見ると、もはやそれは宗教画にしか思えない。装画は、のんさんだ。
かくして一人のアイドル評論家は、ついに「神」を生み出したのである。
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