[Iの告白]
『サード・キッチン』は自伝かとよく聞かれるが、そうではない。でも舞台にした大学は私の母校で、タイトルにした食堂も名前は違えど実在する。私がなぜ反差別を掲げる大学と食堂を敢えて選んだか。理由はいろいろとあるけれど、すべての根っこには、家族に育まれた価値観と、それにより強く理不尽を感じた七歳の頃の経験があると思う。
小学校入学と同時に東京へ引っ越すまで、私は隣県の郊外でのびのびと育った。好きな遊びは雑木林でのターザンごっこ、体が大きく喧嘩も強かったことから、保育園で付いたあだ名は“番長”だった。一方、入学した小学校は都心の高級住宅街に隣接し、公立にもかかわらずかなり高い割合で受験経験者・予定者がいるような学校だった。私の担任は「生徒の多くが名門中学に入学している」と評判のO先生。四年次に転入した次姉は、同級生に長姉の中学を問われ、地元の公立中学だと答えると「お姉ちゃん馬鹿なんだね」と嗤われて非常にショックを受けたという。
フェミニストの両親から「将来は手に職をつけるべし」とは説かれても、「勉強しろ」と言われたことのなかった私たち三姉妹は、中学受験の存在すら知らなかった。正会員か準会員かでカーストが決まる某塾のことは、ずっと塾だとわからなかった。どう聞いても二つの地名を連ねただけだし。かろうじて“塾”というものを知っていたのは、かつて父が近所の子供向けに、勉強のほか工具の扱い方や食べられる山菜などを教える塾を開いていたからだ。
O先生は子供の目にも明らかな贔屓をする人で、その基準は勉強ができる、お金持ち、顔がいい、のどれかだった。つまるところ「受験に受かりそうな子」だったのではないかと今は思う。どれにも当てはまらない奔放な七歳児は、O先生のクラスでは立派な異物だった。ついでに零細企業家だった父と、フルタイム労働者だった母も、多くがエリート夫と専業主婦で占められた保護者の間では異物、というか平日の保護者会に参加できたはずもないので、幻の珍獣みたいなものだったろう。そもそも学歴の頂点とされる大学の院まで進んでおいて、学生運動の影響で退学した両親が、O先生やお受験父母の価値観と相容れるわけもなかった。
O先生には何かと目をつけられ、問題児扱いされた。O先生のお気に入りたちと喧嘩になれば、謝罪させられるのはいつも私――たとえ発端は彼らが大人の目を盗んで私に嫌がらせをしたり、おさがりの服や使い古しの持ち物を笑ったりしたことでも。彼らのことも、「(受験をする)うちの子の邪魔しないで」と釘を刺してきた親たちのことも、悲しさも悔しさも、瞬間冷凍の鮮度で覚えている。O先生らは外見至上主義、階級差別、学歴差別に繫がる価値観を子供に植え付ける、“種蒔く人”たちだった。でも当時の私は、そしてたぶん彼らも、それが差別だという認識はまったくなかった。
高校生になりアメリカ留学を考える頃には、苦い思い出は遠のいていたけれど、南北戦争より数十年も前の創立当初から、黒人も女性も受け入れてきた大学の理念には、ごくごく自然に惹かれた。大学院が楽に思えるほど勉強させるという評判もよかった。ずっと不信感のあった“学歴”、それがゴールのような勉強より、本物の勉強がしたい。どう見ても学業そっちのけで食う・寝る・バスケしかしていなかった私の主張を、家族はよく信用してくれたなと思う。
留学後、人権意識をがっつり身に付けて育った友人たちと話す中で、七歳の時に感じた不公正の実体がとてもクリアになった。獲れたてかというくらい活きのいい慷慨を抑えられず、O先生宛に出す予定のない手紙を延々と書いたりもした。我ながら少し怖い。
他にも様々な紆余曲折を経て、辿り着いたのが「サード・キッチン」のモデルになった食堂だ。料理長の一人として毎週二~三十人分の食事を作った。乏しい材料で制約も多い中なんとかできたのは、「生活力を身に付けるべし」という母の理念の下、レシピ本の漢字も読めないうちから料理の基礎を教えてくれた姉たちのお陰だ。
しらお・はるか 神奈川県生まれ。東京育ち。米国の大学を卒業後帰国し、外資系映画関連会社などを経て、現在はフリーのデジタルコンテンツ・プロデューサー、マーケター。二〇一七年、「アクロス・ザ・ユニバース」で第十六回「女による女のためのR-18文学賞」大賞、読者賞をダブル受賞。一八年、受賞作を収録した『いまは、空しか見えない』でデビュー。二〇年、初の長篇小説『サード・キッチン』を刊行し、話題に。
-
『李王家の縁談』林真理子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/12/4~2024/12/11 賞品 『李王家の縁談』林真理子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。