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徳川が民衆支配のために使った禁断の「呪い」と、それに抗い闘った者たち

徳川が民衆支配のために使った禁断の「呪い」と、それに抗い闘った者たち

木下 昌輝

はじまりのことば

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

「別冊文藝春秋 電子版37号」(文藝春秋 編)

 ブックカースという呪いがある。

 本が貴重だった頃、本を盗んだ者にかけられるものだ。そのために奥付に呪いの文言を刻んだ。ブックカースのかかった本を盗んだものは、アナテマになる。アナテマとは“呪われた者”という意味で、もともとは異民族を殲滅する“聖絶”のことをいう。

 呪いは、大別して二種ある。ひとつは丑の刻参りのように一方的に特定の相手を攻撃する呪い。もうひとつはブックカースのように、禁忌を犯した者を罰する呪い。

 ここで論理を飛躍させてみる。

 禁忌を犯した者を罰するのが呪いであるならば、鬼門や風水などもまた呪いである。災厄に見舞われないための対処として、鬼門のライン上に水回りを置かないなどがある。雷が鳴ったらへそを隠したり、夜中に新しい靴をおろさないのも呪いへの対処だ。

 さらに飛躍させると、憲法や刑法、民法もまた呪いといっていいかもしれない。法に定められたことを犯すと、刑罰という攻撃を受ける。

 ブックカースならぬ、鬼門カース、風水カース、法カースといったところか。この世は、あらゆるカースに満ちている。このままコロナが長引けば、マスクカースも定着するだろう。

 便宜上、丑の刻参りなどの呪いと区別するために、ブックカースなどの禁忌を犯して発動する呪いに名前をつける。

 禁忌を犯すの意味から【禁呪】とする。

 禁呪は結構な力を持っている。人々の暮らしをコントロールするほどだ。たとえば丙午がそうだ。丙午生まれの女性は夫の寿命を縮めるという迷信がある。一九六六年の丙午は、出生率が前年比で二十五%も下がった。出産を控えたすべての夫婦が迷信を信じたわけではあるまい。にもかかわらず、である。実際に災厄に見舞われるかどうかはともかく、禁呪は人々の暮らしをコントロールする。

 さらに話を飛躍させる。

 ある日、テレビを見ていると、スポーツ選手のジンクスやルーティン、験担ぎを特集していた。マウンドに上がる時、ラインを必ず右足から越すと決めているピッチャーが、験担ぎを忘れて左足で越えようとして、慌てて足を捌いて右足を出す場面があった(足をくじかないか心配なほどだった)。ある強打者は験担ぎで、球場までの高速道路の左車線しか走らないそうだ。他球団から恐れられる打者が、右車線のファミリーカーに追い抜かれていた。これもまた禁呪ではないか。いや、冗談ではない。ある意味で、丙午のような強烈な影響を与える。こんな例がある。具志堅用高氏の世界戦連続防衛の世界記録が途絶えた原因は、いつも試合前に食べるアイスクリームを口にしなかったことだと本人が大真面目に語っている。んな、アホな、と思うが、本人はいたって真剣だ。計量後にアイスを食べるつもりがコーチに止められ、もやもやしたまま試合に臨んだが、どうにも力が入らずに敗退したという。

 勝負に生きるアスリートたちは、験担ぎやジンクスにはとても敏感だ。これを破ると、大きな違和感を抱えて勝負に挑まねばならず、それがパフォーマンスの低下に直結するのは容易に想像できる。彼らは、自分自身に禁呪をかけているのだ。

 勝負に生きた、という意味では戦国時代の武士たちもそうだ。彼らも様々な験担ぎをした。敗北に通じるから、北を忌むなどはその最たるものだ。首実検には煩雑な作法があるが、遵守することで殺生の罪業から逃れられると自己暗示をかけられる。その結果、戦場でパフォーマンスを損なうことが少なくなる。アスリートの験担ぎと根は同じだ。生死に直結する分、彼らはより深く身近に禁呪をその身にまとわせた。

 さて、今作は大坂の陣を取り上げた。主人公は宮本武蔵。さらに水野勝成、坂崎直盛らが出てくる。最初は『宇喜多の捨て嫁』『宇喜多の楽土』『敵の名は、宮本武蔵』の三作の続篇をやってしまえ程度の動機だった。

 が、いつしか構想を練る内に、徳川家康がいかにして日本に対して禁呪――カースを施すか、という物語になった。

 事実、家康は日本にカースをかけた。戦国乱世を終わらせるために必要なカースだった。

 家康が特別なことをしたわけではない。聖徳太子は十七条憲法というカースで、仏教を信奉する国民性へ誘導した。GHQは憲法第九条をつくることで、日本人を戦争アレルギーへ導くカースをかけた。

 為政者は国や民にそれまでの時代とは違うカースを施して、新しい時代を創る。

 悲惨なのは、古い時代のカースを守り続けた者たちだ。ブックカースを犯したものがアナテマ(呪われた者)になり聖絶がふりかかるように、時代の狭間には新しいカースの災厄に見舞われる者たちがいた。豊臣家の人々がそうだ。また、徳川家に抗う意思はなくとも、幕府から異端とされアナテマとなった人もいた。キリシタンや傾奇者、戦国の気風を色濃く残す武士たちである。強弱様々な迫害によって、アナテマたちは聖絶されていった。武芸者であった武蔵もそうだ。生き残ることを至上とする下克上の武道家は、太平の世ではアナテマだ。去勢されるか、さもなくば聖絶されねばならない。

 武蔵は、どの道を行くか選ばねばならなかった。

 今現在もカースは存在しているし、古いカースにしがみつく人々もいる。あるいは、それは私自身かもしれない。

 歴史の転換点では、必ず新しいカースが生まれ古いカースと大きな摩擦衝突が生じた。徳川の世になる直前、新しいカースの犠牲になった人々が大勢いる。彼らの魂を、宮本武蔵という男の目を通して書いてみた。

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版37号 (2021年5月号)
文藝春秋・編

発売日:2021年04月20日

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