本書は「一都道府県につき一つの寺院」を紹介した、ユニークな仏教書である。
世のなかには、京都や奈良の名刹を紹介したガイドブックや、著名な著述家が訪ね歩いた「巡礼本」は存在する。だが、そこに登場する寺院は、観光的要素の強い「名刹中の名刹」を紹介したものがほとんどだ。
本書は京都であろうが、奈良であろうが、あえて「一カ寺」を選び、その歴史と地域性などを紐解いた。一見、強引にも思えるかもしれないが、それは、まんべんなく日本の寺院を俯瞰することで、「寺とは何か」「日本人とは何か」を浮き上がらせることを本書の目的としているからである。
現在、大学や仏教教団の研究所などにおける「教学」の研究者は厚く存在する。「仏教学」や「宗学」と呼ばれるジャンルである。しかし、「寺院学」という学問は存在しない。寺院の調査・研究は等閑になっているのだ。
日本の寺院のことを、少し数字でみてみよう。
日本には七万六九七〇もの仏教寺院が存在する。そうした個別の寺院を傘下にもつ「天台宗」「浄土宗」「曹洞宗」「臨済宗妙心寺派」などといった宗門(包括宗教法人)は一六七(※1)ある。
それがどれだけの規模感であるかは、次の公共的要素の高い施設の総数と比べてみてもらえればわかりやすい。たとえば、交番──六二六〇(※2)カ所、郵便局(直営)──二万一四一局(※3)、コンビニエンスストア──五万五九二四店(※4)、学校──五万六九一二校(※5)、歯科診療所──六万八一四(※6)八施設である。
こうした公益性の高い施設はソーシャルキャピタル(社会関係資本)とも位置付けられる。寺院もソーシャルキャピタルなのだ。
寺院のもつ最大の分布特性は、「人口の多寡にかかわらず、どの地域社会にも存在する」ことだ。離島を除く市町村単位で寺院が存在しないのは、廃仏毀釈で地域すべての寺院が破壊され、今もって復活していない岐阜県東白川村のみである。
諸説あるが、江戸時代には現在よりももっと多く、九万ほどの寺院数があったとみられる。(※7)ここまで寺院のネットワークが広がっているのは、江戸時代に徳川幕府が敷いた寺檀制度が背景にある。幕府はキリシタン禁制を目的として、全国の村ごとにまんべんなく寺を配置した。そしてムラやイエ単位で寺院は維持されてきたのである。
日本仏教史からみた寺院
ここで本書をより読みやすくするために、ざっと日本仏教史の流れを振り返ってみよう。
仏教が伝来したのは五三八年(別説では五五二年)のこと。百済の聖明王が欽明天皇に宛てて、一体の仏像(一光三尊阿弥陀如来像)と経典などを贈ったことが始まりである。この時の「一光三尊阿弥陀如来像」を祀っているのが、信州随一の名刹、善光寺(長野県・善光寺の章を参照)だ。
当時、日本には土着的な神道(古神道)が根付いていた。仏教受容を進めたい当時の豪族、蘇我氏と、外来宗教を排斥したい物部氏の間で激しい崇仏論争が始まる。結果、聖徳太子が率いる蘇我氏が勝利して、わが国において仏教が根を下ろすのである。このときの仏教は権力者のための信仰であると同時に、当時の最先端の外来文化であり、文明だった。
奈良時代には鎮護国家仏教の名の下に、南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗)が立ち上がる。しかし、学問的要素が強く、民衆に寄り添うことがなかったため次第に衰退。現在では法相宗、律宗、華厳宗の三宗しか残っていない。奈良仏教は基本的には超エリートの宗教だったのである。
そうした中、法相宗の僧侶、行基は民衆救済のための遊行に出る。行基が開いた寺院は畿内を中心に四〇余り(『続日本紀』)とされ、本書で紹介した岩手の黒石寺や佐賀の大興善寺など、開山を行基とする寺院は多い。
平安時代には最澄、空海の二人の天才が唐に渡って密教を修得する。帰国後、最澄は比叡山にて天台宗を、空海は高野山で真言宗を開く。奈良時代に登場した役行者(役小角)が始めた修験道が各地で信仰されるようになったのもこの頃である。
つまり、日本の各地に広く仏教が伝えられたのは、平安時代以降のことだったといえる。本書に登場する「その地域で最も歴史のある寺院」の多くは、平安期の修験道や天台宗、真言宗の広がりに由来している。しかも、そのほとんど全てが、わが国の土着の古神道と一体となった「神仏習合寺院」なのだ。庶民信仰という意味では、この時期にこそ「日本仏教が始まった」と考えることができそうだ。
この頃、同時に仏教信仰を強固なものにした出来事がおきた。平安時代後期、にわかに広まった末法思想である。末法思想とは、釈迦の入滅一五〇〇年後(別説では二〇〇〇年後)、仏の正しい教えの効力が失われ、世の中が混乱し、退廃してしまうなどという終末論のことである。
末法思想はその後の鎌倉新仏教の誕生に大きな影響を与えた。「日本仏教の母山」と呼ばれる比叡山延暦寺で学んだ法然や親鸞、栄西、道元、日蓮らが新たな宗派を次々と開き、「祖師」「開祖」と呼ばれるようになったのだ。その後、祖師を継いだ有力な後継者や弟子たちが各地で布教を展開。現在の仏教分布に大きな影響を与えている。
例えば北陸は、浄土真宗を開いた親鸞の嫡流、蓮如が一五世紀に越前吉崎に赴き、布教の本拠地としたことで今でも「真宗王国」と呼ばれる浄土真宗の一大勢力となっている。
また、千葉県では日蓮宗寺院が多いが、それは日蓮の直弟子日進が法華経寺(千葉県・法華経寺の章を参照)を拠点に、上総や下総で大布教を展開した影響である。
現在、寺院数の上で最大勢力を誇っているのは曹洞宗(約一万四五〇〇カ寺)である。曹洞宗の寺院は東日本、とりわけ北海道・東北に教線(布教の範囲)を拡大した。その理由について、『曹洞宗宗勢総合調査報告書 二〇一五』では、〈現在の曹洞宗寺院の多くは、一五世紀中頃以降に開創されたものが大多数を占めるが、それは当時、新興勢力として台頭してきた在地領主である『国衆』が領有する発展途上の村落に展開した。商工業が発展し、多くの人々を引き寄せる都市部においては、他派の教線が入り込んでいたためであり、曹洞宗寺院はその間隙を縫って、その数を飛躍的に増加させていった歴史的経緯がある〉としている。
さらに、戦国時代を迎えると、各地の戦国大名の庇護を受けた寺院が、その地域で力を持つようになった。たとえばこの頃、江戸に入った徳川家康は東京・芝の増上寺の法主、存応に深く帰依し、菩提寺とした。そのことで増上寺は徳川将軍家歴代の墓所となり、江戸では浄土宗寺院が勢力を拡大する。現在でも都内には浄土宗寺院が多い。家康のブレーンだった天台宗の僧、天海が三代将軍家光の時代に創建した寛永寺も同様に将軍家の菩提寺となり、江戸時代は関東では浄土宗と天台宗の勢威が高まった。
しかし、明治維新の時、日本仏教界最大の法難が訪れる。新政府が出した神仏分離令に端を発した仏教への迫害、廃仏毀釈である。鹿児島県では寺院が一つ残らず打ち壊され、宮崎県や高知県でも大方の寺院が消滅した。廃仏毀釈の影響は凄まじく、約九万カ寺あった寺院がわずか数年の間に半減したとも言われている。今でも鹿児島県、宮崎県、高知県に寺院が少ないのは廃仏毀釈の影響である。
特に鹿児島県では江戸時代の寺院分布が完全にリセットされた。廃仏毀釈の嵐が止んだ後、この寺院空白地帯において浄土真宗が大布教を開始。現在、鹿児島県内では八割以上が浄土真宗系寺院となっている。
以上のように日本仏教の歴史を俯瞰してみるだけでも、地域の信仰のあり方の一端を垣間見ることができる。
寺院は地域社会の隅々にまで、染み込むように入っていった。京都や鎌倉などにある宗門の本山詣り、初詣や節分会などの年中行事、四国遍路などの巡礼、あるいは現代では御朱印集めや仏像鑑賞を目的とした寺巡りなど、地域を越えて生活や文化的習慣に強く影響を与えてきた。寺院を広い視野で学ぶことは、「日本人とは何か」に迫ることでもある。
お寺の歴史は「謎」だらけ?
一方で、寺ほど謎めいた存在は、そうはない。
「いつからこの寺があるのか」「なぜ、この地域に寺がひしめいているのか」「開山からどういう変遷を辿ってきたのか」「誰も住んでいない山奥に巨大寺院があるのはなぜか」「なぜこの宗派なのか」「本堂の規模に比べて本尊がとても大きいのはなぜか」──。
実際、多くの住職は自坊の縁起(起源や歴史的経緯)を分かっていない。私も京都の浄土宗寺院に住持しているが、ここ半世紀ほどのことは分かるが、戦前のことともなれば、何も知らないに等しい。
京都には清水寺や東西本願寺、知恩院、天龍寺、東寺、妙心寺などの古刹名刹がひしめいているが、多くの文献が残るそうした名刹さえ、伝承(口伝)と史実が混在しているのが実情である。
その理由は、いくつかある。例えば、寺の開山があまりにも古く、当時は記録媒体そのものが存在していなかったケースである。
仏教の伝来は六世紀半ば。文書などによる記録が生まれるのがどんなに早くとも八世紀以降である。現存する寺院に残る寺伝文書の類の多くは、せいぜい江戸時代に入ってからだ。
さらに寺の主や場所、さらには宗派さえ変わってしまうケースも少なくない。浄土真宗を除いて寺の住職が世襲されるようになるのは、実は明治以降のことだ。寺によっては政治的な影響を受けて宗派の兼務や転向、廃寺命令が下ることも珍しくはなかった。そのため寺伝がきちんと継承されておらず、それ以前の歴史が不明になっているケースが少なくない。
次に、度々の戦火で焼かれているケース。これは京都や東京などの都市部でよくみられる。戦国時代以前は特に、寺院自体が軍事的にも力を持っていた。戦火に巻き込まれるどころか、戦いの主体でもあったのだ。寺院同士が武力で戦う場面もあった。一方、太平洋戦争では東京などの多くの都市が空襲に見舞われてもいる。
また、落雷による火災もしばしば起きていた。五重塔を思い浮かべればわかるが、近代以前、寺院は最大の高層建築でもあった。避雷針が大規模建築物に取り付けられるようになったのが明治以降のことである。
さらに、明治初期の廃仏毀釈でかなりの割合(一説には五〇%)の寺院が破壊されたこと──などが理由として挙げられる。
このように、古代・中世からの縁起をもつ寺院で、創建からそのオリジナルの姿を維持している寺院はまず、存在しないといっていいだろう。
また、とくに宗教にはありがちではあるが、歴史が「理想化」されて伝わっている点は厄介だ。
本書でも、寺をひらいた人物として登場する“定番”が「聖徳太子(厩戸王)」「行基」「坂上田村麻呂」「役行者」「円仁」らである。
特に存在感が大きいのは第三代天台座主の円仁である。九世紀、中国の五台山で密教を会得し、没後に「慈覚大師」の称号が与えられた円仁が開いたとされる寺は、北は北海道、南は鹿児島まで存在する。円仁開山の寺の数は全国に六〇〇カ寺を超えるとも伝わるが、実際はそのほとんどが後世の「勧請開山」(弟子らが師僧の名前を借りて寺を開くこと)とみられる。
むろん、そうした聖者が本当に開山したものも混じっていることは確かであるが、それを検証する材料は乏しい。本書の記述では「伝承である」「想像の域を出ない」などと添えた上で、史実と区別して書き添えていることをお断りしたい。
特に地域社会において、長きにわたってその寺院がどんな役割を果たしてきたのか。地域の信仰形態や文化、生活習慣にどのような影響を及ぼしてきたのか。本書はそうした社会と寺院との関係性を可能な限り取材した上で、先述のような「なぜ」に迫る。
お寺選びの基準
本書に登場するのは実際に私が四七すべての都道府県に入り、取材した寺である。そのセレクトについては私の主観の部分も多いが、一定の基準も設けた。それは、
(1)日本古来の宗教観を知るに十分の縁起を有していること(ある程度の記録が残っている)
(2)地域性をよく表した寺であること
(3)日本仏教史のターニングポイントとなった寺院であること
(4)地域文化やライフスタイルに影響を与えた寺院であること
(5)地域に現存する最古の寺を検討したうえで、新旧・宗派などのバランスをとる
(6)当該寺院を参拝するためにわざわざ訪れる価値のある寺院であること
(7)読者に紹介するに値する佇まい、境内環境、住職の人柄等が整っていること
(8)一生に一度は参拝したい寺院であること
である。あなたは、これらの地域を代表する寺院の中で、いくつの寺を知っている、あるいは参拝したことがあるだろうか(一〇カ寺以上参拝していれば、あなたはかなりの寺院通といえるだろう)。
「寺院とは何か」。その先に見える「日本人とは何か」。本書を通読していただければ、その輪郭がくっきりと見えてくるはずである。
(「はじめに」より)
※1 文化庁編『宗教年鑑 令和二年版』
※2 警察庁『地方制度調査会専門小委員会における質問事項に対する回答について』二〇一八年一〇月
※3 日本郵便『郵便局局数情報』二〇二一年一月三一日時点
※4 一般社団法人日本フランチャイズチェーン協会『JFAコンビニエンスストア統計調査月報 二〇二〇年一二月度』二〇二一年一月二〇日発表
※5 文部科学省『文部科学統計要覧 学校教育総括(令和二年版)』。国公私立の幼稚園・小学校・中学校・高等学校・専門学校・大学・各種学校などすべての学校
※6 厚生労働省『医療施設動態調査(令和二年一〇月末概数)』
※7 平泉澄『中世に於ける社寺と社會との關係』(至文堂、一九二六年)
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