ほしおさなえさん最新刊文庫オリジナル『おかえり草(そう)祓い師笹目とウツログサ2』より 第4話「マドロミソウ」冒頭を無料公開!
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
作家デビューから30年、『活版印刷三日月堂』『銀河ホテルの居候』で知られる著者・ほしおさなえさんが、「本当に自分が書きたかった物語」と語るウツログサシリーズ、注目の第2作『おかえり草 祓い師笹目とウツログサ2』が刊行されました。
舞台は横浜のとある団地と庭園。“植物の妖怪” ウツログサに囚われた宿主たちの人生を丁寧な筆致で描ききった書き下ろしオリジナル作品は、今、静かな感動を呼んでいます。喜び、苦しみ、悲しみ……がたっぷり詰まった人の人生ほど、胸を打たれるものはありません。
時代を映す鏡のようなリアルさを持ち合わせながらもファンタジックな本作品は、不思議な小説集。今回、4話目の冒頭を特別公開します。ぜひお楽しみください。
草が揺れている。
オリーブ色というのだろうか、淡いグリーンの細くしなやかな茎。その先についた鈴のような形のもの。それが窓の外一面に揺れている。
知らない草だ。葉のようなものは見当たらないし、それにあの先端についた丸いもの。花なのか、実なのか。白く、透けている。ただ丸いだけで花びらも蕊も見当たらないから、実なのだろうか。
身体を起こし、あたりを見まわす。高い天井の洋間だ。木の床の上で眠っていたらしい。目の前は一面大きなガラス戸で、その向こうにその草が揺れている。庭なんだろうか。靄がかかっていてはっきり見えない。俺はゆっくりと身体を起こした。
立ち上がり、部屋のなかを見てまわる。壁には何枚か風景画がかかっている。写実的な油彩だ。田園風景や田舎の町が描かれていて、その風景に見覚えがある気がした。
ガラスの扉のついた棚もあった。なかには高そうなティーセットがはいっている。そろいの柄のティーポットにカップ&ソーサー、ミルクポットに砂糖入れ。たぶん海外の高級ブランドなんだろう。花や鳥の緻密な柄が描かれている。年号のはいったプレートやコーヒーカップ、グラスのセットもあった。
「そのティーセットはミントンのもので、コーヒーカップはウェッジウッドよ」
うしろから声がして、ふりかえると高齢の小さな女性がにこにこ笑っている。いきなりあらわれたのでぎょっとしたが、なぜか気持ちがゆるんで、そうですか、と返していた。
「バラの柄のティーセットはロイヤルアルバートのオールドカントリーローズよ。きれいでしょう?」
女性はうれしそうにそう言う。たしかにカップに描かれたバラはうつくしい。赤やピンクの花と緑の葉。縁は金で、高級そうだった。
「年号のはいったお皿はロイヤルコペンハーゲンのイヤープレートよ。むかしは毎年クリスマスに買っていたの。毎年絵が変わるでしょう? それが楽しくて」
雪のなかで犬ぞりに乗った子ども。白鳥のいる湖。雪の降る街をながめている二人づれや、風車の前でスケートをする人々。聖歌隊や蒸気機関車。白地の皿に青で描かれた冬の風景は、絵本の絵のようだった。
女性のうしろを見ると、部屋の中央には大きな楕円型のテーブルがある。テーブルも天板に幾何学模様が描かれ、猫脚というのだったか、脚の先がくるんと丸まっている。壁際にはヨーロッパ風の小机や棚があり、その上にステンドガラスのシェードのついたランプや、磁器の人形や小物が置かれていた。
きっとこの女性の趣味なんだろう。家具も食器もどれもヨーロッパ風だ。でも、そこまでごてごてはしていない。良いバランスで整えられている。
この人にとっては家のなかをうつくしく整えることがとても重要なことなんだろう、と思った。自分のためなのか、家族のためなのか、この家を訪れる客に見せるためなのか。そのすべてかもしれない。ここにいる人がしあわせな気持ちになれる、自分も家族も来客も。それがこの人の望みなのだろう。
「チョコレートよ、食べる?」
女性が楕円の大きなテーブルから箱を持ってくる。金で模様が箔押しされた蓋を開けると、なかにチョコレートの粒がならんでいる。ひとつずつ色も形もちがっていて、凝った作りだ。
「親戚が毎年送ってくれるの。ベルギー製で、すごくおいしいのよ」
女性は箱を差し出す。俺はそこまでチョコが好きじゃない。というより、全体に甘いものがそこまで好きじゃない。だが、食べなければ申し訳ない気がして、箱のなかをじっと見た。
ハート型のもの、貝の形のもの、鳥の形のもの、ナッツやココアがまぶされたもの、楕円の中央に柄が刻印されているもの。
どれにするか考えているうちに、自分がなにか探し物をしていたことを思い出した。だが、なにを探していたんだったか。なぜか思い出せない。思い出せないままチョコを見つめ、形に惹かれるものがあって、白と茶色のマーブルになった巻貝のチョコを選んで指でつまんだ。
女性はうれしそうににこにこと微笑んでいる。俺もぎこちなく笑い返し、チョコを口に運んだ。濃厚なチョコの味と香りが口のなかに広がり、甘さがぎゅんと脳天を突く。そしてなぜか、俺はこの味を知っている、と思った。これと同じものを前にも食べたことがある。
そのときも、ここでだった気がする。俺はこの場所に来たことがある。この女性のことも知っている。だが、思い出せない。この女性のことも、この場所のことも。
自分のことも。
そう気づいてぎょっとした。
「どうかした?」
女性が訊いてくる。
言おうかどうしようか迷ったが、女性のやさしい笑みを見て、思わず、実は、と口を開いた。
「自分がだれかわからなくなってしまって」
そう言うと、女性は目を丸くした。
「自分がだれかわからない?」
「そうなんです」
俺はそう答えた。俺はこの人を知っている気がする。彼女の態度も親しげだ。彼女は俺を知っているのかもしれない。もしかすると俺がだれなのか教えてもらえるかもしれない、と期待した。
「それはたいへんねえ」
だが、女性はこともなげにそう言っただけだった。
「人間、生きてるとそういうこともあるわよねえ」
「いえ、そういう哲学的な話ではないんです。自分がだれか、まったく思い出せないんですよ。名前も、ここがどこで、どうしてここにいるのかも」
女性はにこにことうなずき、そういうこともあるわよねえ、と言った。さっぱり話が通じない、と思う。ここはどこなんだ。ああ、でも、なんでここにいるかだけはわかる。なにか探し物をしていたんだ。なにを探していたのかはわからないけれど。
「探し物をしていた気がするんです」
「探し物?」
女性がおうむ返しに訊いてくる。
「ええ、探し物です。でも、なにを探していたのか思い出せなくて」
「そう。それはたいへん」
「それを探さないといけないんです」
そう口にしたとたん、自分にとってそれがなにより大切なことである気がした。そうだ、自分はそのためにここに来た。なにかを見つけ出すために。
「じゃあ、探さなくちゃね」
女性が微笑む。
「ええ、そうなんです。でも、それがなにかわからないから、探しようがなくて」
ものにはたいてい定位置がある。料理や食べ物にかかわるものなら台所にあるだろうし、服なら箪笥やクローゼット、文具や本なら書斎といった具合に。だが、それすらわからないのだ。
そもそもここは……。ダイニングテーブルや食器があるから、きっと家なんだろう。俺の家ということか? そうでないなら不法侵入だし、この女性がこんなふうにやさしくチョコを分けてくれるわけがない。
だが、さっきから微妙に話がすれちがっているし、この女性が認知症という可能性もある。それにこれまでの会話を考えると、俺がだれかよくわかっていないようにも見える。やはり認知症なのかもしれない。
「でも、探すしかないわよね」
女性がにっこり笑う。もし認知症なら、これ以上いくら話しても埒があかない。
「探し物は、探さないと見つからないでしょう?」
妙にはっきりした口調にはっとする。探さないと見つからない。それはその通りだ。
「ええ、そうですね」
「この部屋にありそう?」
「わからないです。でも、これまで見たなかにはなかったと思います」
大きさもわからないし、もしかしたら棚の引き出しにはいっているのかもしれないが。
「じゃあ、ここを出て、ほかの部屋を探してみたら? 探しているうちに思い出すかもしれない。考えていても思い出せないけど、その場所に行ったら思い出すこともよくあるでしょう?」
彼女に言われ、もっともだと思う。なにかを探していて、移動するうちになにを探していたか忘れてしまう。でももとの場所に戻ったとたん、それがなんだったか思い出す。たしかにそういうことはよくある。
この人、ボケているわけじゃないのかもしれない。俺がだれかわかっているようには見えない。なのに俺が家にいることを疑問に思っていない。それ自体がおかしなことではあるが、いまの話には筋が通っている。
「そうですね、じゃあ、そうします」
「そうね、それがいい」
女性はにっこり笑って、チョコの箱の蓋を閉じる。そのうしろに木の扉があった。ほかは大きな窓と壁しかないから、ほかの部屋に行くにはあの扉を出るということなんだろう。
「チョコレート、ありがとうございます。とてもおいしかったです」
俺はそう言って扉に向かう。
「よかった。またいつでも食べに来てね」
女性は微笑んでうなずく。
扉を開けて外に出ると、広い廊下がのびていた。廊下の両側に扉がたくさんならんでいる。これはほんとに家なのか? ちょっと広すぎないか。ここに住んでいる人がいるとしたら相当な金持ち。だが、自分がそんな金持ちだとは思えない。
じゃあ、ここは俺の家じゃないのか? もう一度女性のいる部屋に戻って訊いてみようかと思ったが、そこには出てきたはずの扉がない。どういう仕組みかわからないが、戻れなくなってしまった。前に進むしかないらしい。
あきらめて廊下を歩きはじめる。扉はいくつもならんでいて、そのうちのどれを開ければいいのかよくわからない。決めきれず、とりあえず先に進んだ。だれもいない。どこでもいいから部屋にはいれば、さっきみたいにだれかと会えるのか。
そんなことを思いながら歩いているうちに、目の前がぼやけてくる。靄が立ち込めていた。なにかが動く気配がして、足元を見るとなにかが揺れている。
さやさやと細いものが何本も揺れて、それがさっき窓の外に生えていた草だと気づいた。淡いグリーンの茎。先についた鈴のような形のもの。廊下だと思っていたのに、気がつくとあたり一面にその草が広がっている。
外に出てしまったのか、と思ったとき、目が覚めた。
はじめてその夢を見たときは、たしかそんな流れだった。そのときからくりかえし、俺はその夢を見ている。草と広い屋敷の夢だ。
目覚めるのはいつも決まってあの部屋だ。そこで女性に会い、チョコを渡される。それを一粒食べると扉があらわれる。俺は女性にあいさつして廊下に出る。
最初のときはそこで草原に出て、目が覚めてしまった。
だが、次のときは別の部屋にはいることができた。そこはなぜか学校の教室のような場所で、だれもいない。机やロッカーのなかを見ているとだれかがやってくる。小学校高学年くらいの男子で、探し物をしていることを話すといっしょに探してくれた。
だがその部屋にもぴんとくるものがなく、部屋を出るとそこは草原だった。家だったはずの建物のなかになぜ教室があるのか。目が覚めてから不思議に思ったが、夢なんてそんなものなのかもしれない、と納得していた。
次に見たときは、最初の部屋を出たあと、前と同じ扉を開けたつもりだったのに、まったくちがう場所に出た。古い子ども部屋のような場所だった。玩具や絵本がところ狭しと置かれていて、部屋の奥から小さな子どもがやってきた。その子も探し物を手伝ってくれたが、やはり探し物は見つからず、なにを探しているのかも思い出せないままだった。
同じ扉を通っても、いつもたいていちがう部屋に行った。だが、最初の部屋でチョコを選ぶときに前と同じものを選んだら、同じ部屋に出た。あらわれたのは別の人だったけれど、部屋は同じだ。そのとき、これまでは無意識にちがうチョコを選んでいたのだと気づいた。
あの女性が出してくるチョコが行き先を決めているのかもしれない、と思い、チョコと部屋の関係を記憶しようと試みた。だが、チョコの箱は二段になっていて何十種類もあり、常に同じものがはいっているともかぎらなかった。だから、もう一度同じ部屋に行きたいと願っても、それが叶うわけでもないのだった。
書斎のような場所に出たこともあった。本棚がならび、窓際に大きなデスクが置かれていた。棚にならんだ本の背をながめていると、だれかがやってきた。初老の男で、やはり探し物を手伝ってくれた。ものしずかだが、なつかしい感じのする人で、探し物をするあいだ、そこにある本のことをあれこれ話してくれた。
男は探しものが本だと思いこんでいて、探しているのは「もの」としての「本」なのか、それとも「本」に書かれた「言葉」なのか、と訊かれた。そう訊かれてはじめて、探し物が「物体」でない可能性もあるのだと気づいた。自分が探しているのは「もの」ではなく、「情報」なのかもしれない。だが結局、その部屋でも探し物は見つからなかった。
くりかえし夢を見たが、同じチョコを選ばないかぎり、ちがう部屋に出た。どれだけ大きな屋敷なんだろう。いろいろな人に会い、いろいろな話を聞いた。探し物に関係のないことがほとんどだったが、あの書斎の男と話したときのように、少しだけ答えに近づけたと感じることもあった。
出会う人はみんな俺にやさしかった。そうして、どことなく見覚えがあり、なつかしい感じがした。だが何度行っても、自分がだれなのか、そこがどこなのか、なにを探しているのかはさっぱりわからなかった。
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