本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる
(第3回)3 姿ハ似セガタク

(第3回)3 姿ハ似セガタク

文:岩井 俊二

岩井俊二『零の晩夏』


ジャンル : #小説

[先輩、こんなこと密告していいのかわかりませんけど、私は、高梨さんが怪しいと思います]

[あの人、尾藤さんとずっと付き合ってるの知ってます?]

 絶句した。

[カモフラージュですかね。先輩はまんまとハメられたって感じですかね]

 世界がぐるぐると回っているような感覚に襲われ、そのまま電車の床に転がりそうになるのを懸命に堪えた。私の震える指は、浜崎さんとのトークを離脱し、高梨さんから届いたメッセージを未開封のまま、パワーオフのボタンを押して、スマホを鞄の中にストンと落とした。

 

“ハイ、オシマイ”

 

 誰の声だろう。そんな声が頭の中で聞こえたような気がした。

 あの代理店の関係者とは、一切これっきりにしようと思った。尾藤さんは言うに及ばず、高梨さんはもとより、後輩の浜崎さんさえも。自分の中から抹消することにした。後にも先にもなかったことにしてしまおう。そう思うと不思議と気が楽になった。電車は日吉駅に着いた。あと一駅で綱島だ。時計を見る。世間は今頃ランチタイムか。ああ、帰ったら真っ昼間からお酒でも飲んで寝てやる。明日起きたら人生のやり直しだ。ああ、いいじゃないか! ああああ、メチャクチャせいせいする!

 綱島に着き、家までの長い坂道を歩いた。白紙になったスケジュールに何を書き込んでいこうか。もうワクワク感しかなかった。まだ来ぬ春が突然やって来たかのようで心が躍った。

 家に着いた。母の姿がないこの時間帯に足を踏み入れ、妙な郷愁に囚われる。子供時代の気配が蘇り、小学校時代にも、こんな気分で家に帰り、母の姿がない事に心細くて泣いてしまったことがあったが、あの時学校で何があったんだろう、そんな記憶を辿ろうとして、不意に涙ぐむ。

 バスルームに行き、服を脱ぐ。鏡に映る自分の裸身。胸の谷間の傷。この傷を誰にも見られたくなかった子供時代。

 ああ、自分は可哀想な生き物。子供時代も、今も。

 シャワーを浴び、すっきりしたところで、台所へ行き、冷蔵庫から缶ビールをひとつ取り出して、グラスに注いだ。一口飲んだ。最高に美味しかった。それを一気に飲み干したら眠くなって来た。濡れた髪の毛のままベッドに飛び込んだ。このまま寝たら山姥(やまんば)みたいになるなあと思いながら、しかし睡魔には勝てなかった。思えば睡眠不足が果てしなく続いたような生活だった。入社して九年。このまま九年分眠り続けたいくらいだった。

 私は深い眠りに落ちた。

 目を覚ました時、窓の外はもう真っ暗だった。帰宅したばかりの母がまだコートを着たままだったので、七時過ぎといったところだろうか。心配そうにこちらを見下ろしていた。

「どうしたの? 具合でも悪いの?」

 私は何か答えたのかも知れないが、記憶にない。そのうち再び眠りに落ちたようである。次に起きたのは深夜だった。何時かさえ判らない。一階の母が動き回る物音がしなかったから多分深夜だ。次に目を覚ましたのは翌朝だ。またしても母が心配そうにこちらを見下ろしている。私は告白した。

「会社辞めた」

「え?」

 それから母がなにかあれこれ私を問い糾したが、答えることができなかった。私はまた眠りに落ちた。次に目を覚ましたのは正午過ぎ。全身が脱力して、起き上がることすらできなくなっていた。

 どうしたんだろう。私の身体。

 しかし考えることすら億劫だった。今日から新しい人生なんじゃなかったっけ? そう思っても、それ以上のことが考えられない。私はまた眠りに落ちた。こんな状態が三日三晩続いた。母が近くの診療所の医師を呼んだ。私は腕に点滴を打たれた。ようやく起き上がって部屋の中を動き回ったり、プリンなんかを口にできるようになった頃、今度は母がインフルエンザに罹って、私もそれを貰ってしまい、母は五日で快復したが、私は二週間寝込んだ。そのさなかに身体はいろんなものをデトックスしたに違いなく、頭はまだ少しフラフラしていたけど、羽化したての羽も伸び切らないモンシロチョウのような気分であった。

 窓を開けると、部屋に吹き込む冷たい風に、微かな春の気配を感じた。なにかずっと失われていた感受性が戻って来た気がした。

 すっかり白紙になったスケジュールに最初に入ってきた用件は、江端優希の“三人展”だった。江端優希はカナビジョの同級生である。加瀬真純の作品を私と一緒に見て共に愕然とした彼女も今では藤沢の中学で教壇に立ち、同世代の美術教師たちと三人展というのを毎年、鎌倉のギャラリーで開催していたのだが、いつも忙しくてずっと行けず仕舞いだった。今回は時間だけはあり余っていた。折角だから行ってみよう。こういうことも運命である。その展覧会はひどく退屈なものであったが、そこで見つけたチラシの中に私は“零の『晩夏』”を見つけた。チラシはヒカリノ森美術館の展覧会の案内だった。幸運にもまだ終わっていなかったのだ。

 三月三日、雛祭り。それに因(ちな)んだわけでもないが、私は“零の『晩夏』”に会いに行った。

 ヒカリノ森美術館は千葉の緑区という行ったことのない場所にあった。京葉線から外房線に乗り継いで、土気(とけ)駅で降りると、そこからはバスである。横浜からだと、ちょっとした小旅行だ。『世界は君たちが塗り変えてゆく。超写実絵画の若き才能たち』といういささか大仰な、しかし清々しいくらい未来志向なタイトルに、素直に心躍った。私は久しぶりの美術鑑賞を楽しんだ。

『晩夏』は一番奥の展示スペースにあった。遠くから、その存在に気づいた時、もう駆け出してしまおうかと思ったぐらいだ。会場内は人影はまばらだったが、観客は静かに作品に見入っている。特に『晩夏』の前には複数の見物人の姿があった。私は他の絵を眺めながら、観客がいなくなるのを待った。その機会が到来した時は、さすがに私の足は逸(はや)る気持ちを抑えられなかった。

『晩夏』は想像していたより大きく、想像を遥かに上回って緻密であった。なぜこんな絵が描けるのだろう。なまじ油絵を嗜(たしな)んでしまっている自分には、あまりに人間離れした技術に思えた。こんなものを描こうとしたら、自分だったら一生涯かかってしまうかも知れない。何か、刹那のような儚(はかな)さがあり、仮に人生にこういう瞬間があるとしたら、それは本当に一瞬であり、それがこうして絵となっていつまでもそこに留まっていることが、奇跡のようであった。巧く描こうとすら思っていないかのような、写実的に写し取ろうという意図すらなかったかのような、うっかり撮影した写真の一枚がわりとよく撮れていたので部屋に飾った、というくらい、明日またここに来たら、もうこの絵はなく、ただの壁があるばかり、という結末が待ち受けているかのような、そんな不安定な、瞬間のゆらぎのようなものが、この絵を脈動させていた……とでも表現したらいいだろうか。その不可思議さが私を魅了して止まないのであった。

 ある言葉が脳裏に浮かんだ。

「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」

 江戸時代の学者、本居宣長のこの言葉を座右の銘にしているのだと、お酒を飲みながら嬉しそうに語ってくれた高梨さんのことを想い出した。心を真似するのは簡単だが、形を真似するのは難しい。最初に聞いた時は高梨さんが言い間違えたのかと思った。形、つまり外観は誰でも真似できるが、心の中は誰にも真似できない。そういうことを言いたかったのかと思ったら逆であった。つまり心の中を真似することは実は容易で、外観を真似することの方が却(かえ)って難しいのだと。そんなものだろうか。その時はピンと来なかった。けれどそれからこの先輩の話は、実は私に対する苦言だったことを知る。この世界、やりたい想いがどれだけあっても、出来る知識と知恵と技術と人脈やネットワークがなければ何もできないものである。失敗の連続。けど新人だし、失敗ぐらいするさ。新人なんだから失敗しないわけがない。それを当たり前に思っていた。そんな私に高梨さんは、ストレートに説教ではなく、何か私に刺さるような言葉選びで、私の甘さを諭そうとしたのだ。きっと。小林秀雄のエッセイで読んだと彼女は言っていたような気がする。

「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」

 この『晩夏』という絵を前にすると、本居宣長のこの言葉は疑いようもない。このような雰囲気の絵を描くのは私にも可能かも知れない。けどこの上手さ、この巧みさを真似せよと言われたら不可能だ。作品を傑作に押し上げる最後の決め手とは、似せがたきイメージを似せしむる作家の腕なのだろう。その腕を磨く苦労はきっと並大抵のものではない。

「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」

 そんな言葉を座右の銘にしていた高梨さんはあの会社の中で最も輝く女性だった。

 なのに……何故?

 ……しかしそこから先はもう二度と考えたくない、思い出したくもない、回想禁止ゾーンだった。

 知らぬ間に涙が頬を伝ってきた。私は鞄からハンカチを取り出して、涙を拭った。ふと人影を感じて振り返ると、職員らしき女性が、心配そうにこちらを見ている。私は恥ずかしくなってその場を離れた。ああ、折角だから彼女に質問すればよかった。この絵を描いた零という絵描きは一体どんな人だろうかと。とはいえ涙を見られた上で彼女に訊くのも気恥ずかしい。誰か他にこの質問に答えてくれないだろうか? そう思いながら、私はEXITと書かれたゲートを潜る。その先には売店があり、女性職員のひとりがレジに立っていた。

(この人に訊いてみようかな?)

 しかし妙に気後れして、結局訊けなかった。要らぬ情報を聞かされて幻滅するのも嫌だった。そう。あの絵は、存在しているだけで、こんなにも自分を感動させてくれたのだ。他に何を知りたいというのだろう。私は黙って図録を買い、それを抱えて、ヒカリノ森美術館を後にした。

 ああ、来てよかった。正直にそう思えた。久方ぶりに清らかな空気を吸えた一日となった。海から吹く春風はまだ少し冷たかったが、頬に心地よく刺さった。

 家に帰ると、私は早速スケッチブックを開き、3Bの鉛筆で『晩夏』を改めて模写してみた。難しい。どうにも太刀打ちできない。自分が絵描きになるなんて不可能だ。だってこんな才能の人がいるのだもの。

 でも……私は思ってしまった。

 おこがましくも関わりたいと。この絵の世界に深く深く関わりたいと。



岩井俊二

1963年生まれ、宮城県出身。『Love Letter』(95年)で劇場用長編映画監督デビュー。映画監督・小説家・音楽家など活動は多彩。代表作は映画『スワロウテイル』『リリイ・シュシュのすべて』、小説『ウォーレスの人魚』『番犬は庭を守る』『リップヴァンウィンクルの花嫁』『ラストレター』等。映画『New York, I Love You』『ヴァンパイア』『チィファの手紙』で活動を海外にも広げる。東日本大震災の復興支援ソング『花は咲く』では作詞を手がける。映画『花とアリス殺人事件』では初の長編アニメ作品に挑戦、国内外で高い評価を得る。2020年1月に映画『ラストレター』が公開、同7月には映画『8日で死んだ怪獣の12日の物語』が公開された。

単行本
零の晩夏
岩井俊二

定価:1,980円(税込)発売日:2021年06月25日

プレゼント
  • 『赤毛のアン論』松本侑子・著

    ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。

    応募期間 2024/11/20~2024/11/28
    賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様

    ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。

ページの先頭へ戻る