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穴のむこうに見える未来の頭文字はエフ――多和田文学を「重ね読み」してみた

穴のむこうに見える未来の頭文字はエフ――多和田文学を「重ね読み」してみた

文:岩川 ありさ (早稲田大学文学学術院准教授)

『穴あきエフの初恋祭り』(多和田 葉子)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『穴あきエフの初恋祭り』(多和田 葉子)

「穴あきエフの初恋祭り」(初出「文學界」二〇一一年一月号)は、魚籠透、那谷紗、「わたし」の・三人関係・が魅力的な小説。キエフを舞台にして、古い街並みを取り壊し、新しいマンションやビルを建設する会社に抵抗するため、言葉遊びやユーモアが政治運動と結びついて活性化する様子が描かれる。二〇一四年に、下北沢の本屋B&Bで、多和田と、「朗読、笑い、お話――反対運動におけるユーモアの住処としての身体と言語」という催しをしたことがある。そのときに、多和田の文学における「反対運動」を探してみたところ、『ヒナギクのお茶の場合』に収録されている「雲を拾う女」では、「同性カップルの税金の額を、既婚者と同じ額に下げろって言うデモ」が起こっていた。エッセイ集『溶ける街透ける路』(日本経済新聞出版社、二〇〇七年)では、奴隷解放運動や女性解放運動の先駆けとなったイサカというアメリカの町のことや、エストニアのタリンで、政治体制が資本主義へと転換するのにともなって、喫茶店の前の広場が駐車場に変えられたのに対して行われる駐車場反対運動が描かれており、多和田文学には、案外、反対運動やデモが多く顔を出している。そのときに重要になるのが、言葉遊びやユーモアによって既存の価値観を揺さぶるような笑いの存在だ。シアターXでのレパートリー劇場公演やドイツ文学者の松永美穂がコーディネートしてきた早稲田大学での公演&ワークショップで、多和田とともに言葉と音楽のコラボレーションを行っているピアニストの高瀬アキは、エッセイの中で次のように書く。

 

 笑う、戯れるということは単なる表面的な可笑しさからだけ生まれるわけではない。

 そしてユーモアには多くの想像力や表現能力も必要だ。何か常識という枠を超えた中にふと浮かび上がって来た時の笑いが私には面白い。(『多和田葉子の〈演劇〉を読む』一五〇頁)

 

 高瀬が書くように想像力と表現によって常識の枠を壊すようなユーモアこそ、「穴あきエフの初恋祭り」をはじめとする多和田の小説の特徴の一つであり、政治運動と言葉遊びはお互いを活性化させる。

「てんてんはんそく」(初出「文學界」二〇一〇年二月号)には、「照子(=テルコ)」、「青江(=アオエ)」、「アリス」という三人の登場人物が出てくる。二〇一八年に京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)で行われた「朗読と講演」(聞き手・森山直人、http://realkyoto.jp/article/tawada_moriyama/)の中で多和田が明かしているように、三人の名前は、ドイツの電話会社テレコム、大手インターネットサービス会社AOL(ドイツ語読みで「アー・オー・エル」)、そして、もう潰れてしまったという電話会社「アリス」に対応している。一種の擬人化小説だが、通信速度が加速し、通信会社の競争が激化する時代において、強迫的(あるいは脅迫的?)なまでの「販促」が行われる様子は切実だ。しかし、離れているからこそ、魂が身体を離れてしまうほどにあくがれることも起こるのだろう。「こがれる、あこがれる、遠くを思うとたまらなく息が苦しくなる。届かないものに語りかけ、ふりむいてほしいとひたすら願う」という輾転反側(眠れないで寝返りをうってばかりいる状態)は、そういうときにこそ起こる。

「おと・どけ・もの」(初出「文學界」二〇〇九年一月号)は、まさに、物流や労働環境が大きく変化し、人々がその流れに飲み込まれている時代の文学。しかし、不思議なほど、坪内逍遥や二葉亭四迷らが翻訳文学をとおして近代の日本文学をつくった時代を思い起こさせる文体。体言や連用形や助詞でとめる文章の連続は、一〇〇年以上前の文学世界から届いた「おと・どけ・もの」のよう。「世の中ではどんどん単語が死んでいくけれども、小説というのはそう早く書けるものではない」という言葉は、まるで、この小説そのものについてあらわしているようだ。二〇〇九年から届いた「おと・どけ・もの」。

 多和田葉子は、「文學界」二〇二一年二月号に、「陰謀説と天狗熱」という短編小説を発表した。この短編小説も、未来において、短篇集に収められて届けられるだろうか。まだまだ先が見えない状況は続きそうだが、穴のむこうに見える未来の頭文字はエフだ。「穴あきエフ」にどんな未来を見出すのかは私たちにかかっている。決して、未来のその手を離さないようにしなければならない。

文春文庫
穴あきエフの初恋祭り
多和田葉子

定価:726円(税込)発売日:2021年07月07日

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