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“傾斜”

“傾斜”

半藤 末利子 (エッセイスト)

『手紙のなかの日本人』(半藤 一利)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #ノンフィクション

『手紙のなかの日本人』(半藤 一利)

 何年ぶりであろうか。その日、私が文藝春秋を訪れたのは、阿川佐和子さんと対談をするためであった。

 対談を終えると、夫の昔の仕事仲間が、何人か待っていて下さった。御挨拶を交しながら、皆でエレベーターを降りてきた。ビルの入口附近のホールの壁に、引き伸ばされた五、六枚の夫の写真が、ずらりと横一列に並べて貼られていた。その辺りでよく夫と待ち合わせをしたことがあったので、ふいに懐かしさが込み上げてきて目頭が熱くなった。夫が「おまたせ」と言ってエレベーターから降りてくるような気がしたのである。

 夫が文春に勤めていた頃、たまには外食をしようという時には、大抵この辺りで待ち合わせていた。

「どこへ行く? 何が食べたい?」と夫が訊き、「何でもいい」と私が答える。料理することは嫌いではなかったが、“毎日やる”そう“毎日やらねばならぬ”から時には解放されたかったのだから、実際のところ特別にこれでなくてはならないというほどの御馳走はなかったのである。

 若い頃は「お寿司」とか「中華」とか食べたいものを知らせてから、二人して社屋を後にして薄暗くなった夜の街へと出て行くのが常であった。

 

 一通り皆さんとお話したら、児玉藍ちゃんが、

「末利子さん、今、半藤さんのお手紙の御本を復刊しているところなんです。半藤さんがあとがきに『夫子自身の恋文も公開せよといわれる前に、今回はこれでやめておく』とお書きになっていらっしゃいます。末利子さん、半藤さんから沢山ラブレターをおもらいになったでしょう。全部とは言いません。そのうちの一通をお貸しいただいて、何かそれについての文章を書いていただけないでしょうか」

 と真剣な顔で問う。

「ラブレターねえ。一時期は沢山あって箱に入れて取っておいたんだけど、彼、若い頃、引っ越し魔だったのね。重くて邪魔でしょうがなかったし、何回目かの引っ越しの時に、丁度その頃、彼が私に珍しくも反抗したので頭にきて、エイヤッとばかり捨てちゃったのよ。無いんだからしようがないわね。文章も何も書けやしない」

 と答えたら、可愛い顔をしているのに藍ちゃんはなかなかしぶとい。

「何か少しでも憶えていらっしゃいませんか」

 と食い下る。彼女は以前私の『漱石の長襦袢』という著書を作って下さった恩人である。徒(あだ)や疎(おろそ)かにはできない。

 そう言えば、彼はラブレターの中で盛んに傾斜という言葉を使っていた。たとえば、「あなたに傾斜する僕の気持を抑えることはできません」とか、「あなたに傾斜する僕の思いは留まることを知りません」とか「あなたへの傾斜は強まるばかりです」などなど……。

 傾斜って傾くことでしょう。私に傾いているということは、要するに私に惚れているってことなんでしょう。丸っこいような、角張っているような独特な彼の字の“傾斜”を、結婚するまで何回見せられたことか。私は結局、この熱烈なる“急傾斜”に不覚にも足を掬われて、すってんころりんと尻もちをつき、そのまま滑り落ちてしまったのである。つまり、結婚を承諾してしまったのである。

手紙のなかの日本人
半藤一利

定価:781円(税込)発売日:2021年07月07日

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