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歌びと・俵万智の果敢な挑戦で鮮やかによみがえった“牧水の恋”

歌びと・俵万智の果敢な挑戦で鮮やかによみがえった“牧水の恋”

文:伊藤 一彦 (若山牧水記念文学館館長)

『牧水の恋』(俵 万智)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『牧水の恋』(俵 万智)

 第四章は間奏曲ふうの「牧水と私」。前半は、俵万智の高校生のときの牧水との出会い、早稲田での師となる佐佐木幸綱との出会い、牧水の故郷の宮崎県への移住が語られる。後半は、牧水作品から自作への影響にあらためて気づいたと語る率直な文章である。影響と言うよりも恋している二人の感性に豊かな共通項があると言うべきだろう。

 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ    若山牧水

 空の青海のあおさのその間サーフボードの君を見つめる    俵 万智

 ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ   若山牧水

「冬の海さわってくるね」と歩きだす君の視線をもてあます浜  俵 万智

 第五章は「疑ひの蛇」である。根本海岸から帰った後の二人の関係を牧水の短歌と書簡から論じている。心身ともに結ばれて幸福な二人を想像するところだが、あにはからんや暗いトーンがただよい、俵万智はそのわけを追究する。小枝子の境遇への疑い、庸三との関係への疑いを牧水がもちはじめたことを指摘するのだが、一方で肉体的に結ばれる恋の山場を通り越し、共寝に馴れてきた恋の倦怠感も鋭く読みとっている。小枝子の方は「余裕しゃくしゃくで、優位に立っている印象を受ける。姦通罪ということを思うなら、罪を犯しているとは知らない牧水よりも、既婚者である小枝子のほうが慄くべきところなのだが。一線を越えてしまったら、どこか吹っきれたのだろうか」と俵はつぶやく。そこで牧水はなんと「打開策」として結婚を考えるのだ。

 第六章は「わが妻はつひにうるはし」。明治四十一年四月下旬に今の日野市の百草園に牧水と小枝子は二人で泊まりがけの旅行をした。そのことを歌った十三首に俵万智は注目している。歌集『独り歌へる』の巻頭近くに「或る時に」の詞註のもとにまとめられている一連で、秀歌が多い。俵は「根本海岸の時のような高揚感や、直接的な表現はない。が、日常を離れ、つかのまの幸せに浸る牧水の心情が、まことに余韻深く伝わってくる」と書いている。従弟の庸三を引き離した二人だけの空間と時間だったのだ。この一連について俵は重要な指摘をしている。ほとんどの歌に発表した初出誌がないことから、歌集を作るときに当時のことを思い出して新たに作歌したのではないかと。そして、「時間が経っているからこそ、映画を作るように客観的な目を持ちつつ、『幸福感』に特化して詠み、構成できたのかもしれない」。牧水が『独り歌へる』を編集したのは明治四十二年六月である。つまり一年二か月前のことを想起して作品化したのだ。しかも歌集編集の場所に選んだのは同じ百草園だった。ひとり百草園を散策しながら、牧水は幸せな記憶を蘇らせたはずである。実作者ならではの俵の指摘になるほどと思った。

 庸三から小枝子を切り離す打開策としての結婚問題は進展せず、牧水は苦悩している。そんな牧水が小枝子を「わが妻」と詠んだ歌があることについて、俵万智は「『わが妻』と言葉にすることで、活字にすることで、現実のほうを引き寄せたかったのではないだろうか。言霊である」と言っているのが印象深い。

 第七章は「わかれては十日ありえず」。牧水は明治四十一年七月に早稲田を卒業し、学友の土岐善麿と軽井沢にアルバイトに出かけた。ところが、小枝子から東京に帰って来てほしいという葉書が届き、牧水は帰京する。その間の二人のあやうい関係を俵万智は短歌、書簡、エッセイで浮き彫りにする。帰京したものの小枝子と無事に会えた様子はない。小枝子は親族の管理の下にあった。それでも、牧水は小さい家を構えて小枝子を待つ。そんな牧水の本気に対し、小枝子はどんな考えだったのだろうか。俵は自作の「気づくのは何故か女の役目にて 愛だけで人生きてゆけない」を引いて小枝子の心としている。定職ももたず現実生活が不安定な牧水に対し、彼女はこれ以上前にすすめなかったのではないかと。小枝子びいきの読者には反論があるところかも知れない。

 第八章は「私はあなたに恋したい」。年が明けて明治四十二年に牧水は房総の海岸に一人出かける。そして、房総に療養に来ていた石井貞子と知り合い、多くの手紙を出している。その牧水の心理の分析に俵万智のペンは容赦ない。小枝子との行き詰まった恋愛からの逃げ場を求め、恋のつらさを紛らわすために新たな恋を得ようとしていると言う。それはいわば「迎え酒方式」だと。みっともないほどの牧水の甘えとすりよりだが、俵は見事な深層心理の解釈を見せる。牧水の心を「安房」が大きく占め、安房にいまいる貞子と、安房でかつて結ばれた小枝子とが重なり、手紙を書いている貞子の向こうに小枝子の幻を見ていたのかも知れないと。逆にいえば、小枝子への激しい懸想はまだまだ続いていたのである。

 第九章は「酒飲まば女いだかば」。俵万智は牧水が率直に「性の問題」を取りあげて詠んでいることを指摘する。

 白粉と髪のにほひをききわけむ静かなる夜のともしびの色

 あはれそのをみなの肌しらずして恋のあはれに泣きぬれし日よ

 少年のゆめのころもはぬがれたりまこと男のかなしみに入る

 酒飲まば女いだかば足りぬべきそのさびしさかそのさびしさか

 詳しい鑑賞と批評は本文を見てもらいたいが、俵は根本海岸で小枝子と結ばれてから牧水の悩みはいよいよ深くなったと言い、次のように書く。「結ばれたことは、もちろん大きな喜びだが、心の問題だけでなく体の問題が絡むことの複雑さ、切なさ、抗いがたさ」「心と体は、切り離せない。まず心が惹かれあったから体の関係ができたと考えるのが自然なようだが、いやしかし体の関係ができたことではじめて心が確認されるとも言えるのではないか」「なにもかもがうまくいっていれば、どっちが先とか、どっちが重要とか、別に考えたり悩んだりすることはないだろう。だが、恋愛のどこかがほつれ始めると、案外このことが悩ましいテーマとなることが多い。まさに少年にはない男のかなしみとして」。これらの作品を引いて、ここまで踏み込んだ発言をした者はいない。

文春文庫
牧水の恋
俵万智

定価:858円(税込)発売日:2021年08月03日

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