2019年に惜しまれつつこの世を去った国民的作家・田辺聖子さん。
没後2年が経ち、1945年から47年までの戦中・戦後を綴った日記が発見されました。そこに記されていたのは、「大空襲」「敗戦」「父の死」「作家への夢」……。戦時下、終戦後のままならない日々を、作家志望の18歳はいかに書き過ごしたのでしょうか。日記をまとめた『田辺聖子 十八歳の日の記録』(文藝春秋)より、戦後に記された日記の一部を抜粋して紹介します。
昭和20年10月16日 火曜日
一昨日の夜、お父さんは胃潰瘍で吐血した。経過は順調だが、家中はしめっぽい。私はこんな空気は好かぬが。
もう晩(おそ)いから、また明日ゆっくり書く。
10月21日 日曜日
私は若いが、しかし死にたくなる時がある。
お母さんはどんなに苦労だろうと思う。パール・バックの「母の肖像」をよんで感激した。彼女はよく母を理解している。
私もお母さんを理解はしているが、しかしお母さんは私を理解していまいと思える。まして私は、妹の無理解には立腹する。私の興味は妹にとって何ともないし、私の美に対する喜びは妹にとって無関心である。私は修養出来ていないから、それを看過するだけの気持ちにはなれない。将来もあまり仲の好くない姉妹が出来上るであろうことは、かなしいけれど仕方がない。私は妹の人物については理解しているつもりだが、しかしあの子は私を理解しようなんて考えてみたこともなく、いつも怒っている。自分の範疇(カテゴリ)に当てはめせぬからだ。
私はしかし「戦える使徒」(※パール・バック著。自らの父であり、また宣教師として中国に渡り、民衆に献身、「聖者」とまで仰がれた使徒「アンドリウ」を描いた)のように父は描きはすまい。父は永久に、我々三人の子供からその真の姿を描かれないだろう。それはあまりに悲惨であるし、つまらないから。
私の言おうとすることは支離滅裂で頭は濁っており、むしろ私は今、死んでしまった方が楽な状態だ。家中は不愉快なことだらけで、私は死ぬのを待っている。どちらを向いても泣きたくなり、人生への希望も何にもありはしない。この私を慰めるのはただ一つ。自然美と学問とあるのみだが、天気は曇っているし……勉強も、手につかない。それは家がごたごたしているためで、席のあたたまる暇もなく働くからだ。
家は汚いし。私はウロウロしている。父の病気はよくならず、食気(くいけ)ばかり盛で、母がいないとニチャニチャと音を立てて缶詰をたべる。どこにアンドリウのような聖者的なところがあろう。母はたしかにケアリ(※アンドリウの妻)をしのぐ偉大さがある。
今の私は何か機縁があったら自殺するだろう。こればかりの不幸に出遭ってクヨクヨするなんて、なんだという人があるかもしれぬが、私は雄々しくのり切ろうとしても、だめ。それは結局、私自身を偽り、私自身を不純にしてしまうことだ。清純にして強く逞しきもの、それを望んでいるのに、私の現実は私を圧しつけて不純にしようとする。
父が吐血した日、私は泣いた。おどろきと恐れと悲しみで。
しかし今また私は冷然としている。あの涙は少女期にありがちな感傷であろうか。
11月1日 木曜日
父の病気は一向、はかばかしくなく、家中はじめじめしている。母までが暗い眉をしていると、たまらない。我々の用事はたいてい父でふさがり、しかも精神的にこの暗澹さに支配されてしまうのは腹が立ってたまらない。愛情の薄れた病人に対して、私の態度が尖っているなんて怒っても無理はないと思う。父の病気で、私は気がふさがり、何をしても楽しくなくてつまらない。
二週間経つと試験は始まる。しかし私は、晴れ晴れとして試験を受けられないで弱っている。
寮の食糧難は相当深刻であるが、私はこれについて書く元気も持たない。すべてに疲れ、叩きのめされ、ぐったりとなっている。父の溜息、しかめ面を見聞くと、何となく腹が立つ。悲しくもなる。ある意味で私は利己主義にちがいない。しかし、どうしてあんなに父は痛がるのだろう。便通がないからかもしれない。母はしきりにさすっている。奥の間で終日、日の目を見ず、もやしのように青白く細くなって万年床で寝ている父は、はなはだ貫禄がなくなり、つまらなくなって、どんよりとした瞳をしている。物を食べたがるが、少し食べると腹が張って痛むから始末に負えない。
家の経済状態は暗黒だ。母が今まで働いた金であやうく家を支えもっている。それを思うと、父はずいぶん母に感謝せねばならない。父がどれだけ母に世話になったか、考えてみると、全くどう言っていいか分からないほどであろう。
いつか喧嘩して父が母を撲(なぐ)ったことがあったが、今頃再びあんなことがあったら、父の手は朽ちてそのまま凍りついてしまうかもしれん。
いつの場合にも父は頼もしげなく、誤っていたが、いつの場合にも母は正しく逞しかった。母の偉大さは、私は充分見知った。どうにかして、えらくなって、母を安心させてあげたい。私の一生の半分を母に捧げようとも思う。
11月23日 金曜日
また憂鬱。もう何にもあたしの憂鬱を救ってくれない。ヂューデイもケアリも何もかもあたしとは縁切れだ。
ひどくミザンスロープ(※「人間嫌い」の意)になったけど、私はそうでもなく、楽しいときもあるけど。頭がクタクタなので。私は疲れているのだ。
父は弱い。少しよくなったかもしれないけど。病床から、やかましく指図し、何事にも口を出し、その合間合間に、さもしんどそうに溜息をつき、横着にごろごろ寝ている病人は、煉獄にもう一万年とまってなきゃならないだろう。
またそうでもなく、気の毒になり、愛する時もあるけれど。
12月2日 日曜日
ひどく寒い日々だ。巷(ちまた)には餓死者が氾濫している。貧民は年の瀬が越せまい。風は冷たく吹き抜け、そのために美しいコバルトの武庫川の空でさえ、冷やかに感ぜられる。
12月23日 日曜日
母が田舎から帰ってからというもの、父の病態は一向捗々(はかばか)しくなくって、とうとうどん詰まりまで来てしまった。
一昨日の朝、極度に衰弱していた父の容態が一変し、正午には京都の宗雄兄さんと、服部の叔母二人へ電報「カン一キトク」を打つ。近所の人々に医院へ駆けつけてもらう。
夜、叔母(が)来、昨日朝、正午近く宗雄兄さんが来る。父はひどく、しんどい、しんどいと言う。池田先生が強心剤を注射。こう急にくるとは思わなかった。もう昨日今日は、はっきりものを言う元気ももたない。母は泣き通しである。父は「お母ちゃんよう」と母を呼び、母の首に手をまきつける。もじゃもじゃ生えた無精髯の間からは黄色い乱杭歯が見える。垢くさいマッチ軸のような細い手、色の悪い頬、それらが急になつかしく愛すべきものに見えてくる。
人の顔さえみると、ゆったり微笑し、なつめの様な目を明けるが、もうものを言う元気もないらしく、おだやかに眠るばかりだ。時折、大きい呻き声をあげる。胸が苦しいという。心臓が弱っているのだ。「おお可哀想に、しんどいなあ、しんどい、しんどい」
母は涙を泛(うか)べて父の背をさすり抱くと、父はさも気が紛れて安心したように、母の胸に顔を埋(うず)めて眠る。
(※この日、田辺さんの父・貫一さんは亡くなりました。死の間際にあっての家族の様子については、『田辺聖子 十八歳の日の記録』の「解説」に書かれてあります)。
昭和21年1月11日 金曜日
あらゆる現実の体験は、人間の頭脳を、その劇(はげ)しさによってうちくだく。
2月6日 水曜日
相変らず薄曇り。空は低くたれて、もやもやした空気は冷たく頬に当る。それに風がきつい。闇市は繁昌している。至る所、道であろうが敷石であろうが、かまわず商品を蓆(むしろ)の上へひろげる虱(しらみ)みたいな闇商人。サーカスがかかり、淫蕩(いんとう)な目つきの女が丸太で組んだたまり場の上から、通行人に秋波をなげる。埃っぽい蒸し芋を手にした鼻たれ小僧、野卑な音楽、息詰まる濁った空気─鶴橋の光景だ。ここから悪が生れる。闇市こそは悪の温床だ。しかし闇市には何でもある。─それこそ何でも。闇市なくして栄養のことは考えられないだろう。
漢文で浩然(こうぜん)の気(※天地の間に満ちている精気。俗事から解放された屈託のない心持ち。出典は『孟子』)を習った。まだはっきりしない。しかし面白い。論語の方が孟子より面白いと思うが、孟子の王道政治の理想は、民主主義の今日でも共通する倫理を含んでいる。しかし理想はあくまで理想だ。孟子の夢は、違った形をとって、いつの世にも人類の上に輝いている。充実した生活を─それのみを願う。三月上旬に試験があるだろう。私は一心に勉強せねばならないと思う。いつの時にも父のことは胸をはなれず、可愛がって下さった父のことを思う。
わがそばにつねにいませりかた時も
去ることなくて父はいませり
父はたしかにいる、そして私たちを見つめていられる。私は清く、たくましく伸びよう。お父さん見てて! きっと偉い人になりましょう。薄命に散ったお父さん、私の不孝だったのをお許し下さい。私は父の無言の許しを感じる。
5月2日 木曜日 雨
昨日のメーデーも今日の入学式も、雨だ。ずうっと小雨が絶え間なく、夜に入ってやっと止んだらしい。
終日、金のことを考えていた。
金! 金!
ああ金の苦労を知らぬ生活のよさを初めてつくづくと知った。私の人生勉強には、あまりに尊い犠牲が払われている。家の焼失と父の死だ。
私はしかし、その代価によって購(あがな)われたこの勉強は、偉大なるものであったとも考えるが、正直のところ、もうこりごりである。
貧乏─―清貧─―。
ふん、それもよかろう。しかし「真の文明は物質と精神の両方面に俟(ま)つ」と喝破した福沢諭吉を介するまでもなく、物質生活の高度性も現代においては欠くことは出来ない。遠慮なく書物が購え、案ぜずに滋養が取られ、生活に心配がないというのは、なんとのびのびと楽しく、羨やましいことであろう。しかし私は現実への闘争に目覚める。明るく、すこやかな現実を築いてゆくために、私は私の全生命をうちこんでやらねばならぬ。新しい明日はまだ真白な一頁(ページ)だ。私はしかし、まだ明日がある。明日はどうにかなるであろう。現実と戦って勝つか仆(たお)れるか二つに一つだ。そして明日はまだこれから開かれようとする。
私の若い日、それは泣きたくなるほど尊いと思う。私が年寄ってお婆さんになったとき、若き日の過ちをいかに悲しみ、いかに悔むであろうか。ああして過ごせばよかったものを、と必ずや烈しく「今になさばや」の嘆きをかこつであろう。私はそれを恐れる。
盛年重ねて来(きた)らず、一日再び晨(あした)なり難し
嗚呼尊き若き日を、私の送り方はどうであろうか。無意義にあらしめたくない。
12月31日 火曜日 12時
やがて、十九の年も過ぎ去ってゆく。
お母さんも昨夜から、勤め口より帰って来られた。
きょうは一日中、大晦の買い出しに、大掃除、煮〆の仕度に過ごす。明朝の元旦は、ささやかながら、雑煮が祝えるであろう。街は、いかにも暮れの感じ。デパートなんかの混雑すごく、盛り場は人の波のよし。
父が亡くなって一年。この一年は実に多彩な年といいつべきであった。けれど静かに考えてみると、もちろん、経済的にも種々の苦労はあったけれど、学生生活としては、一番この年が楽しく有意義であったといえよう。文学班としても活躍し、成績でも首席が取れ、そして学校生活は文芸会あり音楽会あり、短歌会、文学班雑誌発行、とつづいて楽しいことが続々とあった。こんなに充実したことは、かつてなかったといえるけれど─しかし私はこの一年、どんな所が偉くなったか、と考えると、さして偉くもないと思う。心中甚だ快くない。
気立てのやさしい女の子になろうと思ったのに、それもなれず、弟や妹に当り散らしているし、哲学を勉強したいと思ったのに、それもせず遊んでばかり。一体これで、この無教養さで、小説家なんてむつかしいものになれるかしらと心配でならない。来年からは、きっと、しっかりした勉強をしたいと思う。
今、小説をすこし書きかけてるけれど、どうも思う様に筆がすすまない。題未定。傲慢、無関心、冷淡な一少女が、罹災や戦争の影響のおかげで人間的な精神に目覚めてゆく経路と、それに対照して偏見を抜けきれない女親の心境というものなど、描いてみたいなと思っているけれど、筆はなかなか思う様に動いてくれない。
来年も、勉強して小説を書こう。私はもう、この道しか、進むべき道はない。そう、信じている。来年もまた、幸福な精神生活が送れますように。私は二十歳(はたち)になる。とうとう、少女の域をこえて出ようとする。さらば、十九の幸多かりし年よ。
あらゆる真実と誠意と純情をこめて、私は果てしれぬあこがれへ、心を飛揚させる。何かしら漠々とした、とりとめのない楽しさが待っていそうな翌、二十歳の年……。
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