まぁ、なんて楽しいお話でしょう。ヒロインははつらつとして、妖怪たちはみな可愛らしく、物語の展開はスピーディだ。まるで、小天狗の外道丸(げどうまる)に手を引かれ、姫君といっしょに平安の都の空をかけめぐってきたかのよう。読後感は爽快そのもので、当時の出版社がこの作品をなぜ漫画化しなかったのかと不思議に思ったくらいだ。今からだって遅くはない。ただし、もし漫画にするなら、古典について最低限の知識を持った作家にお願いしたい。装束にしろ、庭の花にしろ、よく知らないままテキトーに描かれると、たちまちリアリティが失われて、雰囲気がこわれてしまうから。
『王朝懶夢譚』の時代設定は作中では名は伏せられているが醍醐天皇のころ、平安中期より少し前のころだろう。東宮に夭折された醍醐帝はわずか三歳の皇子を次の東宮とした。本書はこの史実をふまえて、高貴な都の姫君と東国の若者が紆余曲折のすえに結ばれるまでの物語が描かれている。
主人公の月冴は行動力といいものの考え方といい、平安時代とは思えない今どきの女の子だ。自分に仕える女童に五衰(ごすい)という変な名前をつける洒落っ気もある。そんな姫君だから、入内する予定だった東宮が亡くなり、次の東宮に嫁ぐまでの十年間、ただお邸でじっと待っているなんて耐えられない。「つまらない。あたしは海老腰のおばあさんになっちゃうわ」と、内心は不満がいっぱいである。「もっとひろい世の中を見てみたい、それも世の中の男たちを」とひとりジリジリしていると、姫君の前に小天狗の外道丸があらわれて、どういう気まぐれからか、その願いをかなえてくれるという。月冴姫はなぜか河童や猩々(しょうじょう)、大亀のヒー公といった物の怪と心を通わせることができるのだ。
姫の家には代々、不思議な玉の櫛が伝わっている。重たくて髪をすくには実用的ではないと思うが、その櫛は姫が見たいと思っているところや、運命的に見なければならないことを映し出す霊力がある。ときには時空を超えて、唐の都の玄宗皇帝と楊貴妃の仲睦まじい様子を見せることもある。いったい櫛はどんな形をしているのか、そこにどんなふうに映像が浮かぶのか、私はこの玉の櫛がとても気になる。
ある日、退屈しのぎに櫛を眺めていると、もやもやと景色が広がり、東国からはるばる都にやってきた若者の姿が浮かんできた。姫の目線はくぎ付けになる。狐の紫々(しし)が姫そっくりに化けて、その若者、晴季(はるとき)に近づいたときから、心はここにあらず、魂は全部をそっちに持っていかれてしまう。そして、恋に落ちる。たとえ本人は気づいていなくても、「この人をいじめてやりたい」「自分に振り向かせたい」と思うのはひとめぼれでしかありえない。
最終的に晴季に落ち着くまでに、ほかの男たちとの出会いもあり、それぞれちょっとずつ気持ちを通わせ合う。気が多い姫だから、そのときどきで惹かれる男性のタイプもいろいろだ。渋めのお坊様やユニークな医師(くすし)、自分の運命を嘆いているだけの貴公子もいる。この、美男だけ出てくるわけじゃない、というのがいい。とくに醜男の医師(くすし)、麻刈(あさかり)には絵心をくすぐられる。描き分けが楽しめそうだ。麻刈は愛嬌はなくても、もうすぐ仙人になるような人だから、とらえどころのない魅力を持っている。
でも、本書でいちばん好きな人といえば、私はやっぱり晴季君だ。いくら相手が美人でも、会ったその日に「俺の一生をおまえにやる!」といえる男がいるだろうか。それどころか、狐にだまされたと気づいたあとも、「狐だっていい、ふるさとに連れて帰りたい」という、怖いくらいに純粋ないい男なのだ。紫々の亡骸を抱きしめ、狐は高値で売れるからと集まってきた周囲の人の言葉に耳も貸さず、鳥辺野に深く埋めてあげるところも晴季の優しさが伝わってくる。
私には、鬼の物語に鎌倉幕府と後鳥羽天皇をからませた『風恋記』をはじめ、「東国と都」を舞台にした作品がけっこう多い。都だけだと、生まれも育ちも東京の私には荷が重いという自覚があるし、なによりも京都に暮らしたことがない者には、関東とは文化が違う、あの独特の雰囲気を表現するのはむずかしいのだ。
都から見ると東国ははるか遠い鄙の地だ。和歌でも東国の地名がひとつ入っていると、視界が開け、青い山々やさわさわ揺れる葦原が見えてくるような気がする。胸のなかを緑の風がサーッと吹き渡る。都の澱んだ風ではなく、よけいなしがらみのない自由な風だ。もし私が晴季を絵にするなら、本作中にある田辺先生の形容どおり、目は吊り気味にして、きりっと眉目秀麗で、いかにも東国らしい……、つまりは光源氏と対極にある若者を描くだろう。少々がさつでも、感情のままストレートに動く東国の人々が私にはおもしろい。
軽いタッチで描かれているため、平安もののライトノベルかファンタジー小説と思われがちだが、『王朝懶夢譚』はそんな単純なものではない。田辺先生もこれをファンタジーとして書いたつもりはなかったのではないか。そう思えるほど、本書には古典への愛とロマンが満ちあふれていて、玉手箱のようだ。
乳母を籠絡してまんまと姫君を手に入れた常陸(ひたち)の多気(たけ)の大夫(たいふ)の事件や、舎人(とねり)にさらわれて武蔵の国の竹芝で暮らした姫君の奇譚など、身分違いの男女の話は今昔物語や宇治拾遺物語といった説話集に収められている。たぶん田辺先生はそこからメインになるストーリーをひとつ決め、さらにいくつもの小さなエピソードを取り入れて、『王朝懶夢譚』という先生だけの世界を織り上げたのだと思う。
これらの説話集は本書の時代設定よりのちの時代に成立したものだが、そこには数百年のあいだ巷で語り継がれた風説や噂がたくさん収められている。作家や漫画家にとってはまさにアイデアの宝庫だ。「ねぇ、私こんな話を聞いたんだけど」「まぁ、怖い」。都に出没する調伏丸、袴垂といった大悪党の噂話や、盗賊に誘拐されて最後は犬に食われてしまう不運の姫君の話が、女房たちの会話のなかにさりげなくちりばめられている。読む人が読めば、その元ネタがどこにあるのかピンとくるはずだ。それを面白がれる人には『王朝懶夢譚』はたまらなく魅力的だ。
波乱万丈のすえに月冴と晴季は結ばれて、晴れやかな空の下、常陸の国の真壁へと旅立っていく。賀茂川に目をやれば仲良しの妖怪たちがズラリ。この姫君なら新しい土地にすぐに順応して幸せに暮らすに違いない。万一、夫に先立たれても、家じゅうをバリバリ差配して一目置かれるはず。困ったことがあったら、都から小天狗の外道丸が助けに飛んできてくれるだろう。
美しい挿絵とともに古今の説話を取り上げた田辺先生の『うたかた絵双紙』は私の大切な愛読書のひとつだ。そのなかに六の宮の姫君のお話がある。両親と死別した姫は受領の息子と結婚したものの、頼みの夫は、夫の父親の赴任先である陸奥国に下ることになり、都に取り残される。ひたすら帰りを待つうちに乞食同然に落ちぶれて亡くなってしまう。その極貧ぶりがすさまじい。荒れ果てた庭に一般庶民が入り込み、焚き付けを拾ったり、勝手に小屋を建てて住みついてしまう。運命に流されるだけの姫と乳母の無能ぶりが腹立たしくやるせなく、また、高貴な姫君がこうも簡単に零落してしまう時代そのものが私にはおそろしい。
平安時代の魅力はこのなんでもありの「底知れなさ」にあると思う。人生は短く、身分の差は激しく、着るものも住む場所も気が遠くなるような落差があった。その違いは決定的なようでいて、ひとつ歯車が狂えば高貴な身分もあっけなく崩れ、尾羽打ち枯らせば羅生門で死体になる。本書で語られる、難病治療のために男児の胎児の肝を薬にしたというおぞましい噂も、実際にあったのではなかろうか。田辺先生は平安の闇のいちばん濃いところにも目を向けて、すくいあげている。だから物語にその時代の雰囲気が、リアリティが生まれるのだ。
華やかな王朝絵巻だけが平安時代ではない。盗賊が横行して都の夜は男でも歩けない。邸は立派でも、一歩外に出れば真っ黒な闇が広がる。その奥に物の怪たちがうごめき、人とあやかしの距離はもっと近く、もしかすると月冴のように彼らの姿が見える人がいたのかもしれない。本能のすりへった現代人とは違って「くちちちち」と可愛く笑う小天狗の声が聞こえたかもしれない。平安にはそんな空想をさせる魔力がある。
漫画家になりたてのころ、海音寺潮五郎の『王朝』という短編集を読んだことがある。これも今昔物語などの説話集を下敷きにしているのだが、エピソードの組み合わせ方や、アレンジによってオリジナルの話とは別の作品になっていた。同じような元ネタを使っていても、芥川龍之介の『鼻』や『羅生門』とも世界観がまったく違う。そのとき気づいたのだ。物語の根っこは同じでも、発想はいくらでも広げていい。色をつけ、葉を茂らせ、どんな形にして見せるのか、その匙加減は作り手の特権なのだ、と。当時は時代物の作品はなかなか描かせてもらえなかったが、これなら私にもできるかもしれないと能と南朝をテーマにした作品を思い切って描いた。するとわかってくれる人はちゃんといて、漫画家としてやっていく大きな励みになった。
古典が苦手という人が多いのは、退屈な授業のせいもあるだろう。学校というのはおもしろいことをなぜ、あんなにつまらなく教えるのかなあ。
でも、『王朝懶夢譚』なら古典はハードルが高いと敬遠してきた人も、最後まで楽しく一気に読み通せると思う。調度品も装束も、食べ物も田辺先生はまるで見てきたように、いきいきと描写する。私なら数十行を費やしても伝えきれないことを、サラリと数行で書いてしまう。それでいて、ひとつひとつの場面が色つきで浮かび上がってくる。カタカナ言葉や流行語を取り入れても、土台は揺るがない。王朝気分にあふれ、安っぽくならない。匂いの表現など、誰が真似できるだろうか。
「この香は荷葉だわ。お召物が丁字染めだから、沈香や白檀より丁字の成分がやや勝って、男らしい、ピリッとした香りになっているわ」
衣に焚き染めたお香の匂いが、行間から立ちのぼるようだ。
流行りなのだろうが、最近の若い世代の会話を耳にするたびに、語彙の少なさにがっかりする。せっかく何かに感動しても、「メチャメチャなんとか」とか「まじ、ヤバイ」のふたつですべてに対応してしまう。そんな借り物の言葉を使って、もったいないなぁと思う。もっと素敵な表現がいっぱいあるのに。
日本は言霊の国だ。漫画なら「サー」と擬音をつけて降らせる静かな雨を「蕭々(しょうしょう)と降る雨」といい、ザァザァと降る雨は「沛然と降る」という。字面もいいが、声に出すと響きも素晴らしい。古典を読むとあらためて日本語の美しさに気づく。表現の多様性と、ひとつの言葉に込められた意味の深さに心を打たれる。
『王朝懶夢譚』は王朝世界や平安文学の入門書としてぴったりだと思う。同時に隠れた歴史ロマンであり堂々たる古典ロマンだ。本書をきっかけにして、少しでも多くの人が古典に親しんでくれたらと願う。二十歳でも、四十歳でも、いくつからでもいい。果てしなく広がる古典の豊かな海へ、舟をこぎ出してほしい。
〈インタビューより構成〉





