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「父が吐血した日、私は泣いた」18歳の田辺聖子が直面した、早すぎる父の死

「父が吐血した日、私は泣いた」18歳の田辺聖子が直面した、早すぎる父の死

『田辺聖子 十八歳の日の記録』(田辺 聖子)


ジャンル : #小説

『田辺聖子 十八歳の日の記録』(田辺 聖子)

5月2日 木曜日 雨

 昨日のメーデーも今日の入学式も、雨だ。ずうっと小雨が絶え間なく、夜に入ってやっと止んだらしい。

 終日、金のことを考えていた。

 金! 金!

 ああ金の苦労を知らぬ生活のよさを初めてつくづくと知った。私の人生勉強には、あまりに尊い犠牲が払われている。家の焼失と父の死だ。

 私はしかし、その代価によって購(あがな)われたこの勉強は、偉大なるものであったとも考えるが、正直のところ、もうこりごりである。

 貧乏─―清貧─―。

 ふん、それもよかろう。しかし「真の文明は物質と精神の両方面に俟(ま)つ」と喝破した福沢諭吉を介するまでもなく、物質生活の高度性も現代においては欠くことは出来ない。遠慮なく書物が購え、案ぜずに滋養が取られ、生活に心配がないというのは、なんとのびのびと楽しく、羨やましいことであろう。しかし私は現実への闘争に目覚める。明るく、すこやかな現実を築いてゆくために、私は私の全生命をうちこんでやらねばならぬ。新しい明日はまだ真白な一頁(ページ)だ。私はしかし、まだ明日がある。明日はどうにかなるであろう。現実と戦って勝つか仆(たお)れるか二つに一つだ。そして明日はまだこれから開かれようとする。

 私の若い日、それは泣きたくなるほど尊いと思う。私が年寄ってお婆さんになったとき、若き日の過ちをいかに悲しみ、いかに悔むであろうか。ああして過ごせばよかったものを、と必ずや烈しく「今になさばや」の嘆きをかこつであろう。私はそれを恐れる。

盛年重ねて来(きた)らず、一日再び晨(あした)なり難し

 嗚呼尊き若き日を、私の送り方はどうであろうか。無意義にあらしめたくない。

日記原本(表紙)

12月31日 火曜日 12時

 やがて、十九の年も過ぎ去ってゆく。

 お母さんも昨夜から、勤め口より帰って来られた。

 きょうは一日中、大晦の買い出しに、大掃除、煮〆の仕度に過ごす。明朝の元旦は、ささやかながら、雑煮が祝えるであろう。街は、いかにも暮れの感じ。デパートなんかの混雑すごく、盛り場は人の波のよし。

 父が亡くなって一年。この一年は実に多彩な年といいつべきであった。けれど静かに考えてみると、もちろん、経済的にも種々の苦労はあったけれど、学生生活としては、一番この年が楽しく有意義であったといえよう。文学班としても活躍し、成績でも首席が取れ、そして学校生活は文芸会あり音楽会あり、短歌会、文学班雑誌発行、とつづいて楽しいことが続々とあった。こんなに充実したことは、かつてなかったといえるけれど─しかし私はこの一年、どんな所が偉くなったか、と考えると、さして偉くもないと思う。心中甚だ快くない。

 気立てのやさしい女の子になろうと思ったのに、それもなれず、弟や妹に当り散らしているし、哲学を勉強したいと思ったのに、それもせず遊んでばかり。一体これで、この無教養さで、小説家なんてむつかしいものになれるかしらと心配でならない。来年からは、きっと、しっかりした勉強をしたいと思う。

 今、小説をすこし書きかけてるけれど、どうも思う様に筆がすすまない。題未定。傲慢、無関心、冷淡な一少女が、罹災や戦争の影響のおかげで人間的な精神に目覚めてゆく経路と、それに対照して偏見を抜けきれない女親の心境というものなど、描いてみたいなと思っているけれど、筆はなかなか思う様に動いてくれない。

 来年も、勉強して小説を書こう。私はもう、この道しか、進むべき道はない。そう、信じている。来年もまた、幸福な精神生活が送れますように。私は二十歳(はたち)になる。とうとう、少女の域をこえて出ようとする。さらば、十九の幸多かりし年よ。

 あらゆる真実と誠意と純情をこめて、私は果てしれぬあこがれへ、心を飛揚させる。何かしら漠々とした、とりとめのない楽しさが待っていそうな翌、二十歳の年……。

単行本
田辺聖子 十八歳の日の記録
田辺聖子

定価:1,760円(税込)発売日:2021年12月03日

電子書籍
田辺聖子 十八歳の日の記録
田辺聖子

発売日:2021年12月03日

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